ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

アメリカ西部開拓と日本人 / 鶴谷寿

Tsurutani
 先日の「冷血」の記事やhomさんのコメントにもありましたように、この本は大変枝葉の多い作品で、加害者被害者の家族のみならず、それを取り巻く数多くの家族の状況が記載されているのですが、その中でも一際印象的なのが(とりわけ我々日本人にとって)アシダ・ヒデオ一家でしょう。

 アシダ家は事件の2年前にコロラドからカンザスへ移住した小作農で、被害者であるクラッター一家とも親しく地元コミュニティに溶け込んでいたのですが、事件から間もなくしてネブラスカへ移住します。貧しくとも一家揃って大変勤勉誠実で、クリスマスに家族がヒデオに金歯3本を贈るという涙ぐましいエピソードも挿入されていますし、更に最終章では、長女のボニー・ジーン・アシダがこの地を訪れた際に車の衝突事故で亡くなる、という悲話が語られており、本筋と関係ない家族の中では特に印象に残ります。

 時代から推定してアシダ家はおそらく日系移民一世か二世でしょうね。私がこの本を最初に読んだ当時でさえ「10問正解して夢のハワイへご招待」てな時代、アメリカ本土への旅行など夢のまた夢でした。もちろん日系移民がハワイを中心として多数おられ、本土では第二次大戦中強制移住させられた、というような歴史は知識としては一応知っていても、カンザスなどというアメリカのど真ん中で白人コミュニティに溶け込んでおられたと言う事実には現実感が無く随分驚いた覚えがありました。

 ところが後年、ひょんなことからその手がかりとなる本を頂くことができました。以前の職場にいた時、鶴谷寿先生とおっしゃる英文学の先生とご縁があり、冒頭の写真の「アメリカ西部開拓と日本人」(NHKブックス)を頂いたのです。その内容は非常に興味あるもので、アシダ一家の努力と苦労も偲ばれる思いがしました。ごく簡単にですが、先生のご著書から、日本人アメリカ移民の歴史を追ってみましょう。

1:1800年台中半:中国人の大量移民
 1848年のゴールドラッシュをきっかけに西部開拓が始まり、大陸横断鉄道の建設が急務となります。しかし、奴隷制度の廃止の風潮の為安価な労働力が不足し、それをアメリカは中国から輸入するようになります。それが「苦力貿易」と呼ばれる大量の中国移民で、1860年代の中西部鉄道建設現場では5人中4人が中国人だったといわれています。そしてその労働は苛烈を極め枕木一本に一人の中国人の骨があると言われるほどで、実際奴隷となんら変わる所が無かったようです。

2:1800年代後半:中国人排斥運動と移民禁止
 これ程安価な労働力として利用していながら白人労働者との賃金差に伴う軋轢、更には慣習の違い等に伴う人種差別により次第に中国人は排斥されるようになり1885年にはロックスプリング中国人大虐殺事件などが起こり、1902年に「中国人移民取締条約」の法改正で完全に中国人移民入国は禁止されてしまいます。

3:1900年代初頭:日本人出稼ぎ移民の開始
 中国人が排斥されれば当然ながら労働力が減少し新たな安価な労働力が必要となります。一方日本では農村の貧困と言う経済的条件や武士階級の没落と言う政治的条件から、両国の思惑が一致し、まずは出稼ぎとしての移民がアメリカへ渡ることになりました。1890年にはアメリカ本土に中国人が10万人日本人は2000人でしたが、1920年には中国人6万人、日本人11万人と完全に逆転しています。当初鉄道建設に従事していた彼ら「Jap Gang」(ギャングとは本来の組という意味です)は鉄道網の完備が終わると主に鉱山労働へ移行していきます。その段階でワイオミングのようなアメリカ中央部まで入り込んでいきますが、中国人と日本人の区別の付かない中央部の住民には区別が難しかったようです。

4:1910年代:日本人排斥、そして出稼ぎから定住へ
 中国人に取って代わった日本人も当然ながら低賃金であったため、またも排斥運動が起こります。1913年にカルフォルニア州で「排日土地法」が制定され、多くの日本人は日本へ帰国してしまいます。例えば1910年から1920年までの間に入国した約87000人の日本人のうち約80%の7万人が帰国したと言う記録があります。ここで日本に帰らなかった日本人の中には勿論永住の意思の固い人もいましたが実際は殆どが帰っても生活のめどの立たない「居直り永住」が殆どだったようです。
 1924年には「排日移民法」と称する新法が施行され日本人移民は完全に禁止されました。残された移民は完全に孤立し、帰国しない限り永住しか道がなくなりました。永住するためには家族を持つことが必要になります。ところが当時の日本人移民は元が出稼ぎ目的ですから当然ながら殆どが男性で、大体9:1、奥地では40-60:1と極端な女性不足でした。勿論当時のことですから白人との結婚なんて許されません。かと言って日本に戻って相手を探す経済的余裕も無く、そこで考え出されたのが「写真結婚」でした。
 移民が禁止されたとは言え、当時でも紳士協定として妻帯者が妻を母国から呼び寄せることは可能でした。そこで日本にいる親戚縁者に頼み込み写真で縁談をまとめて花嫁をアメリカに送り込む方法が取られたのです。このような「写真花嫁(Picture Prides)」の実態は正確にはつかめていませんが、相当数(万単位)に上ったと推定されています。

5:排斥、迫害を超えて帰化の時代へ
 このような経緯を経て永住の時代になったわけですが、その間彼らの殆どはなんら日本国の国力の背景も無く保護も受けず個人的なペースで移住しました。言語風習の違いはもとより、排日や人種差別と戦ったわけですが最大の悲劇は太平洋戦争時の強制立退強制収容でした。
 太平洋戦争に際して、2,3世を含めて太平洋沿岸地域の11万人以上の日本人移民が各居住地を強制立ち退きさせられキャンプに強制収容されられました。この間日系二世部隊はヨーロッパ戦線で活躍し幾多の戦功を上げていますし、一方で他の交戦国独伊の移民にはなんらこのような処置は取られませんでした。敢えて言うとアメリカ原住民でこのような強制移住の歴史があるのみですから、これはもう日本人の忠誠心を疑ったということではなく、明らかな人種差別であったといえましょう。

 そのような艱難辛苦の歴史を経て1952年に発効された「移民帰化法」により、在米日本人にもようやくアメリカ市民となる権利が与えられました。「在米日本人」から「日系アメリカ人」となったわけです。英語で書くと

Japanese-Americans

となりますが、このような何々系というのはhyphenated-americansと呼ばれ「ランダムハウス英和大辞書」によると

「米国籍を持つが忠誠心愛国心の点で前の国籍に関する感情を残している米国人」

と定義されています。まだ完全にアメリカに同化していない、ということでしょうね。帰化当時の日本人に当然そのような感情は残っていたと思いますが、鶴谷先生がこの本をお書きになった昭和50年代でもまだその傾向は色濃く残り、日系人の中でもそのような矜持を持ち続けるべきか完全に同化するべきか意見が分かれている、と記載されています。

 今の時代、例えば4世のレイチェル・ヤマガタの歌など聴くにつけ、時が全てを洗い流してしまったのではないかな、という感慨を抱かないでもありません。しかし一方で、今なお中南米への移民の方の訴訟が続いている現実もあるわけです。このような方々は、日本からは「棄民」され相手国からは「利用され差別された」のが実態であった、という事を鶴谷先生の本を読んで改めて感じました。

 時には、アメリカ建設のために戦い斃れた日本人が荒れ果てた西部の日本人墓地に

A Jap(エイジャップと呼ばれる)」

として葬られている事実、あるいは「冷血」に出てくるアシダ一家のように、貧しくとも誠実勤勉な移民家族がより良い環境を求めて転々と広大なアメリカを移住し続けなければならなかった事実を思い起こしてみて、「日本とは何か」「アメリカとは何か」を考えることも歴史認識国際感覚を養ういい機会になるのではないでしょうか。

 「冷血」の一脇役家族から思わぬ長文になってしまいました。読了お疲れ様でした。
<m(__)m>