ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

吉田拓郎半生を語る(1)

 昨日のコンサートレポートの続きというか自分用の覚書です。拓郎さん、「アテネオリンピックの見過ぎで寝てないため、ナチュラルハイなんだよー、今日は時間オーバーしてもしゃべるぞ、声の調子も良いし君達ラッキーだなあ」とのことでMCも快調でした。いつもどおりしっちゃかめっちゃかだったけど、一応テーマ(This Precious Story)として自らの来し方を顧みるということだったので、知っていることは多かったけど結構貴重な話も聞けたので書き留めておこうと思います。

 もし興味のあって読もうとしてる方へ:覚書として書き留めると結構シリアスになってしまいますが、終始笑いに包まれていた雰囲気を忘れずにお読みください。

1:子供の頃から大人は嫌いだった、肩にフケのついた叔父さんに抱っこしてやろうといわれるととってもいやだった。好きだったのはスマイリー小原シャボン玉ホリデーで踊りながら指揮している姿を見て憧れて真似していた。今日でいえば瀬尾さんの立場にいたかった。

2:広島にいる頃はR&B、ロックが好きでバンドを組んでいた。岩国の米軍キャンプで演奏してた。その頃から今に至るまで僕は黒人が好き。今はハル・ベリーのファン。

3:だってロックは寄ってくる女の子にカッコイイ子が多かった。フォークなんか●●の女ばっかり。

4:東京に出てきて入った会社がエレック。歌手としてでなく、社員として入った。初任給3万5千円。

5:年末ボーナス10万円でカーテンレールに10枚つるしてた。最後の一枚はさすがにヤバいと思って東京都民銀行に貯金した。

6:その頃の東京のフォークシーンは最悪。マイク真木が「バラが咲いた」なんて信じられないようなくだらん歌を歌っていた。ヴィレッジシンガーズの前座もしたことあるが嫌だった。関西フォークはその頃凄い勢いがあったが、岡林信康さんはあまり好きじゃなかった。ザ・フォーク・クルセダースだけは素晴らしいと評価していた。

7:子供のオーディション番組に出て「イメージの詩」を歌ったら子供の審査員に「どうしてそんなに難しい歌を歌うんですか」と質問されて、妙に納得した(笑。エレックが取ってくる仕事ってこんなのばっかりだった。

8:NHKのオーディションにも落ちた。その時も「イメージの詩」を歌った(爆笑。

9:1年たっても全く売れないので、自分ひとりの力じゃ音楽シーンを変えるなんてことは不可能なんだと思い始め、あきらめて広島に帰りたいと母親に手紙を書いた。母親はすぐにお茶の免状等一式用意してくれた。だから自分は何時歌手を辞めてもお茶の先生として食っていけるという安心感がある(苦笑)。ちなみに吉田そうたく先生という名前まである。それまでにも母親にはよく手紙を書いていた。「金が無い」とか(笑

10:つま恋7万人集めてやっとマスコミに認めてもらえた。茶畑の真ん中に7万人集まったんだからお茶摘娘もびっくりだよ。

11:その頃の地方コンサートは機材やマイクなどすべて備え付けのものばかりで、何組かが20分ずつ位演奏して日帰りで帰ってくるパターン。自分や遠藤賢司などは一人だからマイクも困らないが、赤い鳥なんか5,6人なのでかわいそうだった。(注:赤い鳥は基本的には5人、もしくはPONTAさんと今は亡き大村さんを加えて7人だったと思う)また興行主は金ぴかの指輪をした怖い人ばかり。

12:これじゃイケないと思い、’73年に初めて機材を自前で持っていくツアーをはじめた。(注:ライブ’73というアルバムになっています。)また、怖い人たちにツアーを牛耳られたくないので若い人たちがイベント会社を興してくれ始めた。今日のサウンドクリエーターもそのひとつ。