ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

吉田拓郎半生を語る(2)

 吉田拓郎半生を語る(1)の続きです。その1は少年時代から売れない時代まで。

13:一躍フォーク界の貴公子ともてはやされるようになって、すっかり天狗になってしまった。驕りたかぶってもいた。悪いこともした。女も向こうのほうから寄ってきた。

14:某石川県で官憲につかまったこともあった。(注:1973年5月23日におきた金沢事件と呼ばれる大事件。少女に暴行したということで日本中大騒ぎになったが結局冤罪であったらしく釈放された。)それ以降もずっとにらまれていた。

15:あの時代、若者は大人と真剣にけんかしていた。大嫌いだったな大人というやつは。味方はラジオだけだった。深夜放送という分野はぼくたちのことを理解しようとしてくれていた。フォークルは深夜放送でもパイオニアだった。テレビや新聞は出してやる、載せてやるという姿勢で鼻持ちならなかった。

16:自分は典型的なA型。B型やAB型の人とはまったくもってあわなかった。もうこりごり。(注:浅田美代子のことか?)

17:年とってからテレビに出るようになった(注:ラブラブ愛してる)けれど、若者の会話は全く理解できず落ち込んでいた。つよし君(Kinki KIds)がなぐさめてくれた。子供のような安室奈美恵ガチャピンみたいと言われたときは本当にショックだった。篠原にはお爺さんくさいといわれたこともあった。

18:’73年のツアーを始めた頃からいつかはビッグバンドでやりたいと思っていた。去年やっとその夢がかなうことになった。ところが、風邪でかかりつけの先生のところへ行って、ついでに撮っとこうといわれて胸のレントゲンを撮ったら影があった。精密検査はハワイに遊びに行って帰ってきてからということになった。帰って検査したら肺癌が見つかり順天堂大学病院に入院。毎晩ベッドで泣いていた。入院中、若い頃(13の頃)に悪いことをしたなあと思う人に対して、一人夜にベッドの中で謝っていた(苦笑。某さださんとかーーというのは嘘(爆笑。あいつは大嫌い。あとは、いのうえさんとか(笑。それ以後禁煙してる。あの時病院にいかずツアーに出ていたら今日ここにいなかっただろう。運命を感じる。というか神戸と同じでしぶとく這い上がってくるんだ。