ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

永い言い訳 / 西川美和

永い言い訳

「 妻が死んだ。これっぽっちも泣けなかった。 

 これは今秋公開の映画「永い言い訳」のキャッチコピーです。本作はその映画の原作で、監督西川美和自身の作品です。オリジナルのストーリーにこだわる彼女のことですから、この小説を書くにあたっては当然ながら映像が念頭にあり、おそらくは脚本も同時進行で思い浮かんでいたはずです。並行して絵コンテや脚本の草稿を書いていたとしても何の不思議もありません。

 だから冒頭句のように、いかにもキャッチコピーになりそうな台詞や文章は幾つも小説の中に出てきますし、映像が容易に思い浮かぶシーン、細かいキャッチとなる記述も満載です。
 例えばこれは絶対に映画に出てくると確信できるシーン。妻の遺品で濡れて故障した携帯電話が束の間息を吹き返し、送信されずにおいてあったメールの文章を夫が見つける場面。画面に映し出されるのは次の文章。

「 もう愛していない。ひとかけらも。 」

 本木雅弘君がこの時どんな表情をするのか、今から楽しみではあります。

 このように、映画を意識した雑多な因子を内包しながらも、この小説は非常によく書けていると思います。今までは一流映画監督西川美和の余技として彼女の小説を読んでいましたが、もう彼女を小説家と呼ぶにやぶさかでありません。この作品にはそれだけの綿密な構成と文章の力が感じられます。直木賞候補、本屋大賞候補はだてではない、と思いました。

 ストーリーに関してはあまりネタバレさせてしまうのも興を削ぐので、ごく簡単に映画HPの記載範囲程度にとどめましょう。

 主人公はあるコンプレックスから本名を知られるのを嫌がり「津村啓」というペンネームで私生活も押し通している人気作家。彼には美しい妻夏子がいますが関係は冷え切っており、その妻が元同級生と出かけたスキーバスツアーで不慮の事故に遭った時も愛人を連れ込んでいました。彼は遺族会で妻の元同級生の夫大宮陽一と知り合います。陽一はトラックの長距離運転手で直情型の人間。私学の名門中学合格を目指す小学生の真平とまだ幼い女の子(あかり)の二人の子供が彼の元に残されて途方に暮れています。ふとしたきっかけで津村啓はこの兄妹の世話を焼くことになり、それに今までになかった喜びや生きがいを見出しますが。。。

 「規制緩和」とやらから後を絶たない過重労働による悲惨なバス事故。この物語の骨格は、そういう卑近な社会問題を題材に取り、突然の事故で伴侶や家族の中心を失った者たちが、マスコミの取材攻勢の中、いかにして生活を立て直していくのか、を描く物語です。
 きわめて現実的な事件を取り上げつつ西川美和は登場人物の内面深く切り込んでいきます。「ゆれる」や「きのうの神様」がそうであったように、内面の美醜の一切合切を抉り出し、登場人物を持ち上げ貶め喜ばせ苦しませます。それは被害者であろうが、子どもであろうが一切の容赦はありません。そこには人間観察の深さと西川美和独特の「」があり、映画監督ならではの彼女にしか書けない世界が確実にあります。

 いくつもの困難や試練、努力と怠惰、感情の高揚と失意の先に何が待ち受けているのか?妻に対する「永い言い訳」はどのような形で終息するのか?
 私は不覚にも最後に涙してしまいました。彼女の小説では初めての経験です。秋の映画公開も楽しみですが、とにかく映画が好きな人にもそうでない人にも是非読んでいただきたい一冊です。