ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

行人 / 夏目漱石 (中) 終章「塵労」

 「行人」のレビューは続いて、漱石胃潰瘍で倒れたため中断され、五ヶ月後に再開された最終章「塵労」に入ります。この作品の白眉であり、そして最も難解な章です。

 序盤は第三章の延長線上にあり、一郎の精神の変調に翻弄される周囲の人間模様が語られます。兄一郎に激昂されて実家を飛び出した二郎。季節は春を迎えていましたが、

自分は春を迎えながら半ば春を呪う気になっていた。

と鬱々としています。そんな彼の住居をそれまでただ一人だけ頑なに訪れようとしなかった嫂(なお)が突然訪れるところから本章は始まります。
 突然のことに狼狽し、所用を聞いても「ジョコンダに似た怪しい微笑」を見せるだけの直の前に立ちすくむ二郎。「しばらく会わないうちに、急に改まっちまったのね」と揶揄する嫂に、否定しつつも動揺を隠せない二郎。何故この頃は来てくださらないの、という痛い質問に、本当に忙しいのです、実は洋行したいと思っているのだから、と苦し紛れに答えた時、ついに直の本音が吐露されます。

男は気楽なものね」「だって厭になればどこでも勝手に飛んで歩けるじゃありませんか」「女はそうは行きませんから。妾(わたし)なんかちょうど親の手で植付けられた鉢植のようなもので一遍植えられたが最後、誰か来て動かしてくれない以上、とても動けやしません。」「立枯になるまでじっとしているよりほかに仕方がないんですもの

 今まで誰にもしたことのない話をあなたにした、という一言を残して彼女は帰ります。そんな彼女を待たせていた車夫の提灯には

彼女の里方の定紋(じょうもん)が付いていた。

 長野家には内緒で「誰か来て(私を)動かして欲しい」という切実な思いを二郎にぶつけるべく訪れたのだろうと思わせる、粋を極めた描写が心に深く残ります。

 この二人の密会の描写は、本当に心では密通していたのかと思えるほどに濃厚で、序盤からいきなりクライマックスがやってきた感があります。実際二郎の心はそれからしばらく嫂のことで一杯になってしまいます。

 しかしその実何も実行できない二郎にある日父から連絡が入ります。父は彼を上野に連れ出しますが、それは手で実家に連れて帰るのが真の目的でした。そして実家で聞く兄の様子は益々おかしくなっていました。最近では妹相手に「テレパシー」の実験などをしているというのです。悩みぬいている父母と二郎は相談し、兄の同僚の教授で一番親密なHさんに頼んで兄を旅行に連れ出してもらうことにします。

 ここで漱石が用意しておいた将棋の駒の一つ、「友達」の三沢が再登場します。三沢は在学中にHさんを保証人としており、学校を出てからも殆ど家族の如く家に出入りしていたので、彼を伝として頼み込むことにしたのです。

 ここからしばらくはちょっと息抜きに入ります。Hさんの返事を待つ間、三沢の婚約者の話、三沢が二郎に斡旋しようとする女性の話などが挿入されます。

 そしてようやくHさんが許諾します。そのHさんに兄の一挙一動を教えて欲しいと頼み込む二郎の奇妙な依頼に憮然とするH氏でしたが、結局長大な手紙を書かざるを得なくなります。そして、この章の後半は殆どがその友人H氏の手紙で占められています。

 ちなみにこの間も一郎と直の関係は悪化し、はやつれ、兄が旅立った直後に訪れた二郎に決定的な告白をします。

兄さんは妾(わたし)に愛想をつかしているのよ。(中略)妾を妻と思っていらっしゃらないのよ。

 その兄はHさんとともに、沼津から、これも漱石縁の修善寺箱根、そして鎌倉の紅が谷(べにがやつ)のHさんの知り合いの別荘へと旅行をしていました。というと優雅なように聞こえますし、実際漱石の風景描写は相変わらず上手い。

 しかし想像をはるかに越えた兄の言動行動に、Hさんは振り回されていたのでした。

 長野一郎は狂ってはいない、とHさんは断言します。しかし二郎の頼みの真の意図を理解した彼が、一郎が寝ている隙を狙って書き綴った長大な手紙の内容たるや、恐らくは二郎にとっても想像を絶するものだったでしょう。
 それは直の不実を疑うといった、言わば誰にでも起こりうる猜疑心をはるかに超越したものでした。大変難しい作業ですが十日間の彼の言動をまとめてみます。

 一郎は日夜不安に苦しみ、寝ていられないから起きる、起きると歩く、歩くと走る、走りだした以上どこまで行っても止まれない。怖くて怖くてたまらない。その不安は

どこまでも休ませてくれない科学の発展から来る

僕は人間全体の不安を、自分一人に集めて、そのまた不安を、一刻一分の短時間に煮つめた恐ろしさを経験している

 そしてついに家庭での孤独を吐露し、父母は偽りの器に過ぎない、妻にも手を加えたと告白します。打っても打っても逆らわない妻に、

僕が打てば打つほど向(むこう)はレデーらしくなる。(中略)夫の怒を利用して、自分の優越を誇ろうとする相手は残酷じゃないか。

なんという傲慢!しかし一郎の顔は苦渋に満ちていました、とHさんは記述しています。そして椅子を失ったマラルメの逸話を持ち出し、どうかしてその苦しみから一郎を救いたいと決意します。

考えて考えて考え抜いた兄さんの頭には血と涙で書かれた宗教の二字が最後の手段として踊り叫んでいる

事を察知したHさんに、一郎は答えます。

死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか

自分の前途にはそれだけの選択肢しかなく、その中であり得るとすれば気違だけだと。

 次にモハメッドが山を呼寄せる物語により説得を試み、「」の一言を持ち出したHさんは一郎に突然頭を打たれてしまいます。生まれて始めて手を加えられてむっとするHさんをみて

それ見ろ。少しも神に信頼していないじゃないか。やっぱり怒るじゃないか。

と言い放つ一郎。

神は自己だ。」「僕は絶対だ。

そして究極の思いとして

根本義は死んでも生きても同じ事にならなければ、どうしても安心は得られない。僕は是非とも生死(しょうじ)を超越しなければ駄目だ

と歯を喰いしばる勢いで言明します。

 当時の漱石自身の神経衰弱の心理と苦悩を赤裸々に吐露しているかのようで、読んでいて息苦しくなるほどです。

 かくのごとく自分の智恵に苦しみぬき、彼と同じように多知多解を誇っていた僧香厳(きょうげん)が一喝され「父も母も生まれない先の姿になって出て来い(これは「」にも出てきた禅問答です)」と命じられて一切を放外(ほうげ)し尽くした故事に倣い、どうかして香厳のようになりたいと願う一郎。

 その後彼に本当の心の平穏が訪れるのかどうかは語られません。しかし

 「嫁に行けば、女は夫のために邪(よこしま)になるのだ。そういう僕がすでに僕の妻をどのくらい悪くしたか分らない。(中略)幸福は嫁に行って天真を損われた女からは要求できるもんじゃないよ

と言う一郎に真の心の平和など有り得ないであろうことは容易に想像がつきます。

 ここでこのレビューの冒頭に回帰しますが、神経衰弱に苦しんでいた当時の夏目漱石に限りなく近いこの長野一郎の日々の生活自体が苦行である、=「行人」なのでしょう。
 そして彼の狂気に巻き込まれる周囲の者、特に二郎にとってもその日々は「行人」の日々だったとも思います。まさに「塵労」ここに極まれり。

 そしてHさんの手紙は下記の一節で終わります。と同時に、この哀れな男の精神の嵐とそれに巻き込まれる人々の悲劇を描いた物語は唐突に終わりを告げます。

「 私は偶然兄さんの寝ている時に書き出して、偶然兄さんの寝ている時に書き終わる私を妙に考えます。兄さんがこの眠(ねむり)から永久覚めなかったらさぞ幸福だろうという気がどこかでします。同時にこの眠から永久覚めなかったらさぞ悲しいだろうという気もどこかでします。 」

 なんと痛切な文章であることか。