ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

屍室よりの風景

 ブログを再開するに当たって、さて、何から書こうかと色々思案していたのですが、初心に戻るという意味で私が初めて書いた随筆を載せることにしました。もう20年以上前医師一年生の年に、同門会に載せる随筆を書けという文書が回ってきたので書いたものです。「屍室(かばねしつ)よりの風景」という題名です。

雪はしづかにゆたかにはやし 屍室   石田波郷

 石田波郷の屈指の名作とされるこの句は、彼が入院中に生まれた。波郷はこの句を病室から見た中庭の風景(対側に屍室がある)として捉えているが、山本健吉は、この句を屍室から見た風景とすべきであると主張している。そのような論争を別にしても、冬の何気ない病室の風景を一息に把え、結晶化させた句として絶妙である。何よりも死のイメージとしての黒と、雪の白とがコントラストを成して美しい。

 死はその死体の醜さを抜きにして考えれば(過去の文学の多くがそうしているのではないか)厳粛なものであり、時にはそれが美しさにまで昇華しうる。我々は、しかし乍ら、その死体の、否、死ぬ間際の人たちの身体という具象をまのあたりに見るが故に、死を美しきものと見なす事には若干の抵抗を感じざるを得ない。

 

 が、しかし、心の何処かには、確かに死は美しかったのではないかという思いは残っている。それは転生への期待かもしれないし、生の最後の努力への称賛かもしれない。あるいは死を自らの立場に置換しての醜の否定かもしれない。

 波郷の句にも自らの生命の危惧が裏にあったことは周知の事であるが、この句を読み切った時の彼の心にあったものは、冷静でかつ峻厳なる死との対峙であったのか、単なる死への恐怖を雪のオブラートで包んだ妥協であったのか、それは誰にも分からない。(また、分かろうとすべきものでもなかろう)

 私はこれからも、数多くの死に立ち会うことであろうが、時にはこの句を思いかえして、死というものから具象を抜き去って屍室の死体を見つめていようと思う。そしてそのような時には、雪が、しづかにゆたかにはやく降っていて欲しいと思う。

 波郷も今や帰らぬ人となってしまった。

以上です。生意気盛りですから文章は生硬ですし、その割りに1年目で次から次へと患者さんが亡くなっていくことへの動揺もありありと見えたりして今読み返すと苦笑モノですが、自分の一番好きな波郷の句を題材にしていることもあり、初エッセイにしては悪くないかとも思います。私が師と仰いでいた中学高校の国語の先生にコピーを送って、簡潔なお褒めの御言葉を頂いたのも懐かしい思い出です。今考えるとその先生には文章の生硬さと自分の心の動揺を見透かされていた気がします。

 このブログも初心に帰ってやっていきたいと思います。よろしくお願いします。