ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

フラニーとズーイ / 村上春樹 訳

フラニーとズーイ (新潮文庫)

 先日ブクレコの常連Fさんが野崎孝訳「フラニーとゾーイー」を「楽しく読めた」とおっしゃっていて、お世辞抜きで凄いな、と思いました。

 例えばサリンジャーで一番有名な「ライ麦畑でつかまえて」は原文もキャッチーな文章がいたるところに散りばめれていて意外にサクサク読めてしまいますし、野崎訳も名訳。正直なところ村上春樹版「キャッチャー・イン・ザ・ライ」よりもあの時代の匂いがあって好きです、はい。

 が、、、グラース家サーガの中心的なこの作品は難解が辟易を背負ってやってきた、と思いましたね、ほんとに。
 あえて言えば「ラニ」はまだ短いし台詞も長くはないし俗物も出てくるのでまあなんとか読める。東海岸の大学ヒエラルキーがわからないので多少イライラはしますが。

 でも「ゾーイー」には降参。一言で言うと天才俳優のゾーイーが母の懇願に辟易しつつも、「フラニー」で神経を病んで自宅のカウチに寝込んでしまった妹フラニーを会話だけで救い出してしまう様を兄のバディが小説にしたという形式の物語。中編程度の長さなんですけど、サヴァンなんだかサイコパスなんだか宗教者なんだか、恐ろしく頭は切れるけどひたすら饒舌なグラース家兄弟の長台詞や長手紙を読まされていると、可哀想な母ベッシー状態になって頭クラクラ、どこまで読んだかわからなくなって読み返すこと数知れず。やーめたっ、で野崎訳へ。
 いかに名手野崎孝でも元々が小難しい文章の連続ですし、宗教用語は多いし、「いかにも翻訳」という文章はこういう作品にあってはやはり読みくだすのは容易くありませんでした。で、最初に戻って「楽しく読めた」Fさんはさすがの読書家だな、と。

 これで終わっちゃレビューになりませんね。で、村上春樹訳なわけです。出版当時ブクレコの常連レビュワーの皆さんがこぞって素晴らしいレビューを書かれていたんですが、正直なところ以上のような理由で逃げてました。で、ついに読んでみたわけですが。

 やっぱり村上春樹です。いかに彼が原文に忠実な翻訳を目指そうと、柴田元幸と一日中顔つき合わせて訳文を推敲し続けたと言えど。
 上手く読点を使ってリズムを作り出し、比較的短い文章をテンポよく連らねていくスタイル、そして独特の柔らい表現方法。それが「キャッチャー・イン・ザ・ライ」では決して心地よいとはいえなかったけれど、この「フラニーとズーイ」では成功していると思います。読みやすくなったとは言いませんが、随分ズーイやフラニー、バディにシンパシーを感じられるようになりました。
 村上春樹自身も解説で「ええ、なんだ、『フラニーとズーイ』ってこんなに面白い話だったんだ!」と驚嘆したそうですので、そんな驚きと喜びが文章に反映されているのかも知れません。

 この作品を読んで、あらためてJ.D.サリンジャーという人は、グラース家の長兄シーモアを主人公とした「バナナフィッシュにうってつけの日」という自らの作品に人生を絡めとられてしまったのだな、と思いますね。
 このバナナフィッシュが収められた「ナイン・ストーリーズ」は村上春樹の盟友柴田元幸さんが翻訳しておられるので、もし彼が次にサリンジャーを訳するとすればおそらくは「大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア-序章-」になるのでしょう。グラース家サーガの続編、今ならもう一度読んでも良いな、と思います。