ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

漱石の妻 / 鳥越 碧

漱石の妻 (講談社文庫)

【 妻(さい)は? 】

 今年前半「漱石大全読破プロジェクト」と称して、漱石の小説群をレビューしつつ、その背景にも踏み込んで漱石の人生を追いかけてみたわけですが、当然ながら漱石大全だけですべてが分かるはずがありません。

 実際は漱石関連の書籍を参考にしていたわけですが、その中でも第一級の資料は漱石の思ひ出」でした。これは漱石の死後、妻夏目鏡子が長女筆子の夫となった松岡譲に請われて口述したものを譲が筆録として出版したものです。

 出版当時、鏡子が漱石の精神の病を公表する形になってしまったことで、通称木曜会の弟子たちからは非難轟々、ただでさえ漱石の生前から囁かれていた「夏目鏡子悪妻説」が定着する羽目になってしまいました。しかし、今となっては漱石の生々しい実像を知ることのできる大変貴重な書籍です。

 私のレビューでも何度か「漱石悪妻説」が本当だったのか?という提起をしましたが、妻鏡子に同情的だったのは、この書を主たる資料として読んでいたからでしょう。

 前置きが長くなってしまいましたが、この「漱石の思ひ出」を元に妻鏡子の目を通して夏目漱石という家庭的にはどうしようもない男の半生を小説として描いたのが本書「漱石の妻」です。

 貴族院書記官長の令嬢として育ったお嬢様が幸せな結婚生活を夢見て、九州熊本でくすぶっていた夏目金之助のもとに嫁いだはいいが、彼の身勝手な性格、家庭内暴力、精神の病、胃病等々に翻弄され辛酸を嘗め尽くし、それでも漱石の愛を求め続け、そして彼の死に水を取ることになる鏡子の姿は、こうして小説として描かれると感動的なものがあります。
 文章自体にはとりたてて特徴や個性が光るというほどのものはありませんが、その丁寧な筆致と膨大な資料を手際よくまとめた構成は好感の持てるものでした。

 ちなみに冒頭に書いた「妻は?」というのは、修善寺の大患漱石が大吐血・仮死状態となったあと蘇生した際に最初に発した言葉でした。作者はあとがきでこう述べています。

決して穏やかな夫婦関係とは言いがたかったが、怒涛の底に、二人しか聴き取れない調べが流れていたのだ。

鏡子はこの一言をよすがとして、漱石の最期まで添い遂げることができたのでした。
 
 というわけで、漱石の小説の裏にあった凄絶な人生や様々なエピソードに興味のある方にはおすすめの一冊です。