ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

硝子戸の中 / 夏目漱石

硝子戸の中

【 漱石最後の随筆、問わず語りの母への思慕の情 】

 漱石大全読破プロジェクトもいよいよ終盤となってきました。文筆活動11年目、漱石死去の前年である大正四年(1915年)に入ります。
 この年一月には対華二十一カ条の要求の交渉が開始され、五月には最後通牒を発して日華新条約が調印されます。そんな背景もあってか海運が大好況で船成金が続出した年だったそうです。

 この年の漱石の主作品は「硝子戸の中」と「道草」の二作品ですが、どちらも完結した作品としては最後の随筆、小説です。そして自らの翌年の死を予感でもしていたかのように、どちらもこれまでになく自伝的要素の強い作品となっています。まず今回は随筆の「硝子戸の中」をレビューしたいと思います。ちなみに「がらすどのうち」と読むのが正しいようです。
 第一回の書き出しを簡単にまとめると次のようになります。

「 昨年末から風邪で寝込みがちとなり、硝子戸でしきられた書斎に篭りっきりで単調な生活を送っている自分だが、時々は頭が動き、気分の多少は変わり、狭いなりに事件は起こる。そんなものを少し書き続けてみようかとは思う。新聞を読む忙しく働く方々は通勤途中で大きな活字が踊る世間の大事件の記事を追いかけるのだろうと思う。そんな人の目に私の書くような閑散な文字などどんなにつまらなく映るだろうか、恥ずかしく思う。 」

 と、いかにも漱石らしい前置きで始まるエピソードの数々は、そんな謙遜に反して当時の漱石ファンにはたまらなく面白い読み物ではなかったかと思います。こんなことを講演で喋れば受けたのに、と思いさえします。そう言えば「無題」と題されて収録されている高等工業での講演について「何でも解らなかったようですよ」と教えてくれる文学士の話も出てきます。

 まあそれはさておき、前半は飼い犬と自ら双方の病気の話や、「吾輩は猫である」の初代猫のあとに来た二代目の猫、三代目の猫の話(ちなみに二代目の猫は布団の下で寝ていて哀れ踏んづけられて死んでしまいます)、泥棒が自分の家を褒めた話、身上話を漱石に小説にしてもらいたがった女の話、やたら短冊を書けと要求してきて自分を辟易させる播州坂越の男の話など、種々のエピソードが並びます。その他、漱石が好きだった寄席や講談、ちょっと色っぽい芸者にまつわる話なども面白く読めます。 

 一方旧友にまつわる話も興味を惹きます。才能と人格がありながら中学校長として樺太(かばふと)まで流れていった、名前の如く「達人」だと漱石が感嘆する旧友Oの話( 太田達人という予備門からの親友)、以前「思ひ出すことなど」で紹介した俳句

ある程の菊投げ入れよ棺の中

をその死に際して手向けとして詠んだ女流作家大塚楠緒(おおつかくすお)さんの思い出などは、余韻を残す良い文章だと思います。

 そしてもちろん病気がちな自分のこと、死に対する思いも随所で語られます。自分より元気だった男が亡くなった時のエピソードで、

『 人間の寿命は実に不思議なものだと考える。多忙な私は何故生き残っているのだろうかと疑って見る。あの人はどういう訳で私より先に死んだのだろうかと思う。 』

と言う一節などは翌年のことを知って読むと感慨深いものがあります。

 さて、後半は漱石の幼い頃や若い頃の思い出話が多くなってきます。
 実は漱石こと夏目金之助の生い立ちは複雑で決して幸福とは言えないものでした。漱石の実母は夏目家の後妻で金之助は五男の末っ子でした。父五十四歳、母四十一歳の時と当時にしては両親とも高齢であったため、いわゆる「恥かきっ子」だったので生まれてすぐ里子に出され、二歳時には塩原家の養子となります。八歳の時に塩原の養父母の仲が不和となり、一時生家に戻りしばらくして養家に帰りますが結局十歳の時養父母が離婚したため生家に帰ります。

 この塩原の養父が後年散々金の無心をして彼を困らせますが、それがどれほどひどかったかは『道草』に詳細に綴られており、小説ではありますがほとんど事実だったと思われます。

 そのような思い出話の中でも、生まれてすぐに里子に出された時の文章が切なくて読む者の胸を打ちます。

 「 私の両親は私が生まれ落ちると間もなく、私を里に遣ってしまった。其里というのは、無論私の記憶に残っている筈がないけれども、成人の後聞いてみると、何でも小道具の売買を渡世にしていた貧しい夫婦ものであったらしい。私は其道具屋の我楽多と一所に、小さい笊の中に入れられて、毎晩四谷の大通りの夜店に曝されていたのである。それを或晩私の姉が何かの序でに其所を通り掛かった時見付けて、可哀想とでも思ったのだらう、懐へ入れて宅へ連れて来たが、私は其夜どうしても寝付かずに、とうとう一晩中泣き続けに泣いたとかいふので、姉は大いに父から叱られたさうである。私は何時頃里から取り戻されたか知らない。然しぢき又ある家へ養子に遣られた。 」

 その様な事情で十歳で実家に戻った当時、漱石は実の両親を祖父母だと思っており、ある時女中の一人が親切に「あのお二人があなたのご両親なのですよ」と教えてくれた、というエピソードも出てきます。

 そして終盤、漱石の思いは実母へと収斂していきます。実際には実父母はあまり漱石を愛していなかったようですが、最後には夢かうつつか判然としないような出来事を語り、

『 母はその時微笑しながら、「心配しないでも好いよ。御母(おっか)さんがいくらでも御金を出して上げるから」と云ってくれた。私は大変嬉うれしかった。 』

と結んだ上で、こう偲んでいます。不幸な生い立ちの中でも母を思慕していた漱石に、今までの作品に見られなかった一面を感じる、深い文章です。

『 私は実際大きな声を出して母に救を求め、母はまた実際の姿を現わして私に慰藉の言葉を与えてくれたとしか考えられない。そうしてその時の母の服装(なり)は、いつも私の眼に映る通り、やはり紺無地の絽の帷子に幅の狭い黒繻子の帯だったのである。 』