ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

『心』自序  / 夏目漱石

『心』自序

 漱石大全読破プロジェクト、10年目大正三年(1914年)に入ります。この年、一月には桜島が大噴火、三月には辰野金吾が設計した東京駅が竣工、四月には第二次大隈内閣が成立しています。軍靴の足音も聞こえてきます。八月には第一次世界大戦に参戦しドイツに宣戦布告、 九月には山東半島に上陸、十一月には青島を占領しています。漱石はこのあたりのことを「硝子戸の中」でさり気なく書いています。

 そしてこの年漱石は心の嵐を乗り越えて四月より八月まで朝日新聞に「心」を連載し、九月には四度目の胃潰瘍で一か月病臥しましたが、「心」自序を描いた上、箱、表紙、見返し、扉など一切を自装した「心」を自費出版しています。

 よってこの年は「心」の年だと言って過言ではありません。他には「無題」(一月の東京工業学校での講演録)「『心』自序」「ケーベル先生の告別」「戦争から来た行き違い」(ケーベル先生が戦争のため帰国できなかったための追加記事)「私の個人主義」と、講演録と新聞記事と自序の5編があるのみです。

 この中から、漱石の大小説群の中でも最も有名な「こころ」のレビューのプロローグとして「『心』自序」を取り上げます。単行本の自序ですから青空文庫から全文転載できるくらい短いものです。

『  『心』は大正三年四月から八月にわたつて東京大阪両朝日へ同時に掲載された小説である。
 当時の予告には数種の短篇を合してそれに『心』といふ標題を冠らせる積だと読者に断わつたのであるが、其短篇の第一に当る『先生の遺書』を書き込んで行くうちに、予想通り早く片が付かない事を発見したので、とうとうその一篇丈を単行本に纏めて公けにする方針に模様がへをした。
 然し此『先生の遺書』も自から独立したやうな又関係の深いやうな三個の姉妹篇から組み立てられてゐる以上、私はそれを『先生と私』、『両親と私』、『先生と遺書』とに区別して、全体に『心』といふ見出しを付けても差支ないやうに思つたので、題は元の儘にして置いた。たゞ中味を上中下に仕切つた丈が、新聞に出た時との相違である。
 装幀の事は今迄専門家にばかり依頼してゐたのだが、今度はふとした動機から自分で遣つて見る気になつて、箱、表紙、見返し、扉及び奥附の模様及び題字、朱印、検印ともに、悉く自分で考案して自分で描いた。
 木版の刻は伊上凡骨氏を煩はした。夫から校正には岩波茂雄君の手を借りた。両君の好意を感謝する。

大正三年九月  』

 核心部をまとめますと、

漱石は「彼岸過迄」で試みたように、数種の短編を組み合わせて一つの作品とし、それを「」と名付けるつもりだった。新聞連載の「先生の遺書」もその作品の一つの予定だったのに、書き込んでいるうちに意外な長編となったため、これだけで一つの作品として単行本にすることにした。章立てをして「先生と私」「両親と私」「先生と遺書」の三章に仕切ったところが新聞連載との違いである。題名もこの小説だけで「」としてもかまわないだろうと思ったので其の儘にした。

ということになります。ですからよく「こころ」と言う題名の意味するところを問う質問が学習課題などでありますが、本来の題名は「先生の遺書」だったのですから考えてもあまり詮無いことだと思います。元々漱石の題名のつけ方と言うのはいい加減なところもありますしね(「彼岸過迄」など)。

Kokoro

 ついでに言うと「」か「こころ」のどちらがタイトルとして正しいのか?これもあまり議論しても仕方ないことです。繰り返しになりますが、本来の題名は「先生の遺書」だったのですから。

 実のところ予算の関係もあって漱石は「箱、表紙、見返し、扉及び奥附の模様及び題字、朱印、検印ともに、悉く自分で考案して自分で描いた。」のですが、その初版本には、どちらの表記も見られます。岩波書店漱石プロジェクトで「こころ」の復刻版を担当したブックデザイナーの祖父江慎さんの説明によりますと、

 まず、函の背表紙には漢字の「」,本表紙の背にはひらがなで「こゝろ」、平部分は甲骨文字らしき字で「心」一文字らしきデザインが描かれています。
 そして本表紙の平部には康煕字典から「」の意味の写しが書かれています。巻頭口絵には漱石の描いた絵とともに小篆文字で「心」、小説の初めにはまたひらがなで「こゝろ」とあります。

 こんがらがってきますね(笑。祖父江さんの推測では「もともと日本には,「揃えない」という美意識があったようで,とくに江戸期の本は中の作品タイトルと外に出るタイトルとが揃ってるものって少なかった」そうですので漱石もそれに倣ったのでしょう。

 というわけで小説のはじめにひらがなで「こゝろ」とあるので、以後「こころ」と言う題名が一般的になったのではないでしょうか。

  ちなみに岩波書店漱石プロジェクトは「道草」出版100周年記念企画だそうですが、この自序にある

「校正には岩波茂雄君の手を借りた」

岩波茂雄とはもちろん岩波書店の創業者です。彼は大正二年(1913年)に神田で古書店を始め、漱石の知遇を得て翌年であるこの年にこの「こゝろ」を出版しました。これは自費出版でしたが、これが岩波書店の処女出版と位置付けられます。漱石没後は安倍能成らと「漱石全集」を刊行しています。

 「こころ」なくして岩波書店もなかった、と言うのがオーバーだとしても、漱石なくして岩波書店はなかったことには違いないでしょう。

 というわけで、当然ながら次回のレビューは「こころ」ということになります。