ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

模倣と独立 / 夏目漱石

模倣と独立

 漱石大全読破プロジェクト、八年目の明治45年・大正元年(1912年)は前回レビューした「彼岸過迄」以外大した作品がなかったことと、「行人」が二年にまたがっているため、本人の動静と日本の世相は省略しました。そこで今回は九年目の大正2年(1913年)とあわせて、まずそのあたりを概観したいと思います。

 1912年といえば当然ながら日本歴史上の大きな節目です。この年の七月三十日明治天皇崩御され、大正改元されました。そして九月には乃木希典が殉死、賛否両論を呼びましたが、漱石は肯定的に捉えているようで、いくつかの随筆、講演、作品で言及しています。翌大正二年には十一月に徳川慶喜が七十七歳で没しており、名実ともに明治の終焉を感じます。
 文学関係では、明治45年四月に石川啄木が「悲しき玩具」、大正元年十二月には島崎藤村が「千曲川のスケッチ」、大正2年一月には森鴎外が「阿部一族」、十月には斎藤茂吉が「赤光」をそれぞれ発表しています。

 さて漱石ですが、明治45年には一月から四月まで「彼岸過迄」を朝日新聞に連載し大正元年九月に刊行します。しかし十一月に「行人」を起稿したあたりから彼のもう一つの病である神経衰弱が進みはじめ、十二月に朝日新聞に連載を始めたものの遅々として筆は進まず、翌大正二年に入っても益々強度となりました。三月にはまたまた胃潰瘍が再発し五月末まで自宅静養したため「行人」は百十五回で一旦中絶しています。九月十五日に「行人続行に就て」を書き掲載を再開、苦心惨憺の末に終章の「塵労」を書き上げました。

 そのような状況であったため、この二年間で「彼岸過迄」「行人」以外には随筆、序文、講演ばかりで、大全には明治45年・大正元年に「余と万年筆」「初秋の一日」、大正二年に「文学の哲学的基礎」「創作家の態度」「『傳説の時代』序」「模倣と独立」の六編が収められているのみです。
 しかも「文学の哲学的基礎」は明治四十年の講演、「創作家の態度」は明治四十一年の講演で、いずれもその年の大全に収められており、どういうわけか重複掲載となっています。おそらく大全の編者がこのあたりで替わっており、大正二年二月に刊行された「社会と自分」にこの二篇も収録されているため重複したものと推定されます。

 よってこの二年間では四篇しかないわけで、あえてレビューするとすれば母校である第一高等学校に教え子の安部能成(あべよししげ)に招かれて講演した「模倣と独立」でしょう。

 これまで漱石自身の講演はレビューで取り上げませんでした。正直に言ってよくこんな内容を当時の聴衆や学生が我慢して聞いていたな、というくらい活字にすると全体に難しくて面白くない。学校での講演はともかく一般講演では「吾輩は猫である」に見られるような私生活の面白い雑談話を期待してきた聴衆も多かっただろうと思いますが、そんな話は一切ない(笑。漱石自身も冒頭の挨拶でしょっちゅう「講演は嫌いだ」「最初は断った」「まあすぐ終わるので我慢して聞いてくれ」てなことを言っています。

  その点、母校という気楽さもあったのでしょうかこの「模倣と独立」は比較的や面白く読めて、一校の生徒であれば理解も容易かったであろう内容となっています。とは言え神経衰弱からようやく回復していた時期なので、最初は断った、本当はやりたくないと平然としゃべっていますが。。。

 まあそれはさておき、枕に学生時代のいたずらや蛮行(後に衆議院議員になった歴史の教師長沢市蔵や有名な国粋主義的教育者で昭和天皇倫理学を教授した杉浦重剛校長の名前も見受けられて面白いです)の話をもってきて笑いを取り、さらりと話題を変えて先日見てきた文展日本画が面白くなかった、みんなノッペリしていて「頭」がないという話題に移ります。そして洋画展もいくつか行ったが「自分というものが何処にもない仏蘭西」だったり、「品の良い大人しい絵」だったり、「自分というものは出ているが未成品」だったりで結局買って書斎に掛けようと思ったものは一つもなかったと、まあ言いたい放題言った後で、それに絡めて本題の「模倣と独立」に移ります。

 漱石はまず「人間全体を代表するその人間の特色」として第一に「模倣(イミテーション)」を挙げます。道徳、芸術、社会などにおいて常にイミテーションをする。それは自分の意志でもあり、外圧(法律的なもの)でもあり、芸術の継承(御能とか芝居の踊り等)でもある、と話を続けます。
 枕ネタで観に行った展覧会の絵がイミテーションばかりで面白くなかったと語っていましたが、イミテーションは決して悪いものではないと、ゴーガンゴーギャン)を引き合いに出します。彼は野蛮地(タヒチですね)に行って優れた絵を描いたが、あれは仏蘭西にいるときに多くの優れた絵画を観ていたからこそなのだと。

 一方で人間は「私を代表する」という観点から見ると「独立」(インデペンデント)にも重きを置かねばならない。人はこの両面を持つが、インデペンデントがいくら大切だと言っても行き過ぎると奇矯な人間となり世間と協調できなくなってしまう。
 そのようなインデペンデントの代表的な人物として、漱石親鸞イプセンを挙げています。漱石は英文学者でしたがよほどイプセンにこだわっていたようで、講演では必ずと言っていいほど引き合いに出し、しかも大抵悪口を言ってます(笑。ここでも偏屈ものだった彼のエピソードを紹介しています。

 そのあたりから話は社会の話まで進み、日本も西洋のイミテーションで開化以来発展してきたがいつまでもイミテーションではいけない、その意味で日露戦争はインデペンデントであったとかいうところまで発展していきます。

 文展からどこまで話を膨らませるのか、と思いきや、最後は、模倣と独立のどっちの方が大切かというと「両方が大切である」と結論してしまいます。ただ、「あなた方」も益々インデペンデントをおやりになって新しい人にならなければいけない、これからの日本をしょって立つ若い人は今の日本の状況から鑑みて独立の方が大切だ、と結んで終わります。

 漱石の講演録では、珍しく分かりやすくて面白い講演録ではありました。