ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

彼岸過迄 / 夏目漱石

彼岸過迄

【 一年半のブランクを経て編まれた後期三部作第一作 】

 漱石大全読破プロジェクト、今回は「彼岸過迄」です。明治43年の「思い出す事など」のレビューで述べたように「」を脱稿後「修善寺の大患」でたおれた漱石は長い療養生活に入ります。よって長期にわたり小説執筆を休むことになるのですが、翌明治44年11月に五女ひな子の急死があり、それに触発されたかのようにおよそ一年半ぶりに再び漱石は筆を取ります。後期三部作(「彼岸過迄」「行人」「こころ」)の開始です。

 大全では「彼岸過迄に就て」が冒頭に載せられており、それによりますと「去年の八月頃すでに紙上に連載すべきはずだった」のが健康上の理由で伸びたため、「久しぶりだからなるべく面白いものを書かねばすまないという気がいくらかある」と述べていますが、その一方で題名は「元日から始めて、彼岸過まで書く予定だから単にそう名付けたに過ぎない」という「実に空しい」ものです。
 とは言えその言葉通り本小説は1912年1月1日から4月29日まで朝日新聞に連載されました。その序文でも述べている通り、今までとは異なった構成を漱石は試みています。すなわち、

「かねてから自分は個々の短編を重ねた末にその個々の短編が相合して一長篇を構成するように仕組んだ」

作品となっています。大全の見出しを列挙しますと

彼岸過迄に就て」「風呂の後」「停留所」「報告」「雨の降る日」「須永の話」「松本の話」「結末」

と、序文を除けば七編の小説からなることになります。確かに凝った構成にはなっていますが、率直に言ってこれらの全てが独立した短編として成立しうるかというと難しいと思います。しかし、夫々の章で語り手や文体を変化させることにより「相合して一長篇を構成」することには成功している面白い作品だと思います。

 内容的には前期三部作に引き続きやはり中心となるのは「高等遊民」の心的葛藤です。その高等遊民が今回は二人も主要登場人物として登場します。主人公田川敬太郎の友人須永市蔵と市蔵の叔父の松本がそうで、そのうちの一人松本には小説中で初めて自ら

「私は高等遊民だ」

とさえ言わせています。その二人を中心とする須永家の係累の日常を主人公敬太郎の視点で丹念に追った後、「須永の話」「松本の話」でこの二人を語り手に替えて自己心理分析と告白をさせる二章がこの物語のクライマックスであり、文章も一番充実していています。後の「こころ」に通じる深い人間洞察と、漱石の前年の関西講演での体験をもとにしていると思われる明石近辺の自然描写がとても美しい、漱石の本領発揮の二篇となっています。

 また明治も開化ははるか昔のこととなり日露戦争の戦勝気分が後退し、大学を卒業してもなかなか職にありつけない学生が巷にあふれ(主人公敬太郎)、また経済的に窮乏して職や居所を転々としなければならない人々も多くいた(家賃を踏み倒して自作の蛇頭のステッキを残して大陸へ去った森本)当時の社会の閉塞状況を、今まで同様ぶれない視点で描いているのも漱石のこれまでの三部作と共通しています。

 新味があるのは、主人公敬太郎が占いに頼った行動をしたり、探偵の真似事をしたりすることでしょうか。私が学生時代に読んだ時には漱石が占いを信じる人間とは到底思えないので不思議な気がしたのですが、大全を順番に読んでいくと大病や五女の急死、そしてこの後におとずれる神経衰弱の再発と、何か弱気になっている漱石の心の迷いを感じ取れる気もします。
 探偵小説としては「」がそうであるという指摘もありますし、「坊っちゃん」でも赤シャツと野だいこを見張る場面があります。しかし本格的に人間が人間を探偵するのはこの小説が初めてです。結果はみじめな失敗に終わり、種明かしをされてな~んだ、となってしまいますが、「停留所」という章はそれだけで結構面白い短編となっています。

 そしてあと一点、やはり五女ひな子の死がこの小説に暗い影を落としています。「雨が降る日」がそれにあたり、この小説の中でも一際物悲しい雰囲気の漂う逸品です。漱石は「結末」で敬太郎にこう語らせています。

『 美しいものが美くしく葬られるのは憐れであった。彼は雛祭りの宵に生まれた女の子の運命を、あたかもお雛様のそれのごとく可憐に聞いた。 』

 漱石の慟哭が聞こえるようです。小説中では松本の子供「宵子」という設定になっており、その死にはヒロインである須永市蔵の従妹千代子が深く関わっているのですが、あまり語りすぎても余韻がないのでこの辺で筆をおきます。千代子については小説を読んで堪能していただきたいと思います。
 ちなみに漱石の五女ひな子は明治43年三月の生まれで翌44年の十一月二十九日に亡くなりました。合掌。