ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

変な音 / 夏目漱石

変な音

【 先のない男の孤独と寂寥 】

 漱石大全読破プロジェクト、七年目の明治44年(1911年)に入ります。明治も押し詰まったこの年、漱石44歳、大きな出来事が二つありました。

 一つは文部省との間で「文学博士号」の授与を巡って、これを断る漱石と授与させたい文部省との間で悶着が起きました。漱石はこの件について朝日新聞に掲載したり、講演したりして自分の立場と意見を述べています。
 その講演に関してですが、この年漱石8月大阪朝日新聞の招きで関西で講演旅行をしており、下記のうち4編はその時の記録です。この旅行の印象は後年「彼岸過迄」や「行人」に描かれることになります。
 ところが漱石大全ではどういうわけかその記述が不完全で大事な事が欠落しています。明石(「道楽と職業」)、和歌山(「現代日本の開化」)、(「中身と形式」)、大阪(「文芸と道徳」)と4か所で講演は行われましたが、漱石大全の「一九一一年の漱石」の項には最後の大阪の記述が欠落しています。大阪での講演は8月18日に行われたのですが、大全では

「(8月)14日に帰郷、痔の手術を受ける。」

と書いてあります。これは史実に照らしあわせると9月14日の誤りであろうと思われます。

 何故そんなに拘るのかというと、実は8月18日に大阪での講演が終了した後漱石はまたもや吐血し、翌19日に大阪の湯川胃腸病院に入院してしているのです。宿痾の病はこの年もまだ漱石を悩ませていたわけです。ちなみにこの湯川胃腸病院は大阪で初めての胃腸科の病院で明治35年開院、今も天王寺区にあり「漱石の入院した病院」として有名です

 そしてもう一つは前年に生まれた五女ひな子が十一月に急死し、漱石は大きな衝撃を受けます。この死を受けて漱石は再び創作活動を再開、12月に「彼岸過迄」を起稿します。

  というわけでこの年に収録されているのは、「博士問題とマードック先生と余」「博士問題の成行」「文芸委員は何をするか」「西洋にはない」「教育と文芸」「子規の画」「学者と名誉」「ケーベル先生」「変な音」「中身と形式」「道楽と職業」「現代日本の開化」「文芸と道徳」と14遍もあるのですが、いずれも随筆、新聞記事、講演録ばかりで、あまり見るべきもののない年ではあります。

 その中で取り上げるとすれば、「永日小品」の流れを思わせる随筆か掌編小説か曖昧模糊とした、不思議な雰囲気を持った作品である「変な音」になるかと思います。

 入院生活を送っていた主人公(おそらく漱石)は、隣の部屋で、

山葵おろしで大根かなにかをごそごそ擦っている

ような奇妙な音を耳にします。しかしここは病院、炊事割烹は禁じられているはずです。だから何か別の音だろうと考えますが、どう考えてもおろし金の音としか聞こえず、音の正体はやはり分かりません。その後も何回か聞こえたもののついには分からずじまい、ちなみに隣の病人は静かな男でそのうち退院していなくなってしまいました。

 その後主人公は一旦退院したものの、三ヵ月後に再入院することになりました。しかも前回入院した時より重症なので物音どころでなく、死んでいく重症の胃癌や胃潰瘍の病人のことばかりが気になってしまいます。ある日の日記にはこう記しています。

「 三人のうち二人死んで自分だけ生き残ったから、死んだ人に対して残っているのが気の毒のような気がする。 」

 しかし案に反して主人公は段々と快方に向かいます。そんなある日、例の変な音を出す患者を担当していた付添看護師と話す機会を得ます。例の件を聞いてみると、その音は病人の頼みで火照った足を冷やすためにその看護師が胡瓜を擦っている音だったと分かりました。

 一方でその患者も、主人公が毎朝6時頃にたてる音を気にしていたようで看護婦に問われてあれは自動革砥(オートスロップ)の音だと答えます。毎朝髭をそるために安全剃刀をを磨いでいたのです。看護婦によるとその患者は、ひどく気にしていて

隣の人はだいぶ快(い)いので、運動をする、その器械の音なんじゃないか羨ましい

と言っていたそうです。そしてその患者は直腸癌で退院してすぐに亡くなったとその看護師から知らされます。

 「胡瓜を擦る音で他(ひと)を焦らして死んだ」男と、革砥の音を羨ましがらせて快くなった人との相違を思い比べてこの小品は幕を閉じます。隣同士お互いの病室から聞こえる音を気にしながらも快方に向かって退院した主人公と、回復の見込みのないまま退院した男。運命とは過酷なものですが、先のない男の孤独と寂寥が身につまされる小品です。