ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

門 / 夏目漱石

門

【 「それから」のそれからの静謐な物語 】

 前期三部作の最終作「」は「それから」と兄弟作品とよく言われますが、激しい感情と色彩が渦巻く「それから」とうって変わって、まるで小津安次郎の白黒映画を観るが如くの静謐で物悲しい作品となっています。
 では何故兄弟作品と言われるのか?漱石が「それから」の最後で破滅させた代助三千代。もしこの二人が運よく生き延びて二人で所帯を持てばこういう生活になるのではないか(あるいはそうあってほしい)と思わせるような、「それから」のそれからの物語となっているからです。

 もちろん異なる小説ですから設定は全く違います。宗助という役所で働く男とその妻御米(およね)の二人が主人公で、前半はこの二人がつつましく東京の片隅の小さな借家で暮らしている情景が描かれます。話はこんな長閑な情景で始まります。

『 宗助は先刻から縁側へ坐蒲団を持ち出して、日当りの好さそうな所へ気楽に胡坐をかいて見たが、やがて手に持っている雑誌を放り出すと共に、ごろりと横になった。秋日和と名のつくほどの上天気なので、往来を行く人の下駄の響が、静かな町だけに、朗らかに聞えて来る。肱枕をして軒から上を見上げると、奇麗な空が一面に蒼く澄んでいる。』

 二人はとても仲睦まじく、結婚してから一度も喧嘩した事がないほどです。そんな二人ですが、親戚はもちろん世間様にも顔向けができない過去があり、京都から広島、福岡と流れていき、友人の計らいで東京に出てきたものの、なるべく目立たぬように、親戚や世間と距離を置いてひっそりと暮らしていることが示唆されます。
 宗助には小六という高校生の弟がいるのですが、彼を庇護していた伯母からもう学費の援助ができない旨伝えられてしまいます。しかし宗助は伯母と掛け合いに行くのを億劫がる一方で自身には弟を援助できるだけの経済力はありません。結局ただでさえ狭い自分の借家に引き取らざるを得ませんが、小六自身も不満足であり、気兼ねのある御米も息苦しい思いをします。
 そんな宗助の日常を端的に表したこんな一文があり、私もちょっと身につまされました。

『 今日の日曜も、暢(のん)びりした御天気も、もうすでにおしまいだと思うと、少しはかないような淋しいような一種の気分が起って来た。そうして明日からまた例によって例のごとく、せっせと働かなくてはならない身体だと考えると、今日半日の生活が急に惜しくなって、残る六日半の非精神的な行動が、いかにもつまらなく感ぜられた。 』

 そこに、そのような彼とは対照的な人物が一人登場します。大家の坂井さんです。土地持ちで賃貸収入やら何やらで十分食べていける好事家で、ある一件で宗助と親しくなり、しょっちゅう二人は行き来することになります。隠れるように世間と没交渉で暮らす宗助には唯一の話し相手となり、小六を書生として引き取りましょうとさえ言ってくれる好人物なのですが、彼の弟が後半思わぬ波乱を巻き起こすことになろうとは坂井さんも宗助も思いも寄らないのでした。

 さて、肝心のこの夫婦の馴れ初めは一体どういうものだったのでしょう?
 宗助は京都で学生生活を送っていたのですが、安井という親友がいて、ある時郷里から「俺の妹だ」と言う女性を連れて京都へ帰ってきました。それが御米だったのです。妹なら何の問題もないはずですが、何か雰囲気が妙ではあります。そのうち安井がインフルエンザで体調を崩し御米とともに神戸に転地療養に旅立ちます。回復した安井に宗助はしきりに遊びに来いと誘われ、重い腰を上げます。
 神戸に住むものにとってその時代の神戸の海辺の情景描写はとても印象的です。ちょっと引用してみます。

『 次の日三人は表へ出て遠く濃い色を流す海を眺めた。松の幹から脂(やに)の出る空気を吸った。冬の日は短い空を赤裸々に横切っておとなしく西へ落ちた。落ちる時、低い雲を黄に赤に竃(かまど)の火の色に染めて行った。 』

うまいなあ、と思いますね。

 ちょっと話が横へそれました。本題に戻りますが、この神戸行から三人が京都へ戻った冬から春の間にあっという間に事は進展してしまいます。「それから」と異なり、具体的な詳細は一切語られません。ただ、その漱石の筆致から「それから」に勝るとも劣らない大事であったことは容易に想像できます。

『 宗助は当時を憶(おも)い出すたびに、自然の進行がそこではたりと留まって、自分も御米もたちまち化石してしまったら、かえって苦はなかったろうと思った。事は冬の下から春が頭を擡(もたげ)る 時分に始まって、散り尽した桜の花が若葉に色を易(かえ)る頃に終った。すべてが生死(しょうし)の戦いであった。青竹を炙って油を絞るほどの苦しみであった。大風は突然不用意の二人を吹き倒したのである。二人が起き上がった時はどこもかしこもすでに砂だらけであったのである。 (中略)

 世間は容赦なく彼らに徳義上の罪を背負(しょわ)した。しかし彼ら自身は徳義上の良心に責められる前に、いったん茫然として、彼らの頭が確かであるかを疑った。彼らは彼らの眼に、不徳義な男女(なんにょ)として恥ずべく映る前に、すでに不合理な男女として、不可思議に映ったのである。 (中略)曝露の日がまともに彼らの眉間を射たとき、彼らはすでに徳義的に痙攣の苦痛を乗り切っていた。(中略)
 彼らは親を棄てた。親類を棄てた。友達を棄てた。大きく云えば一般の社会を棄てた。もしくはそれらから棄てられた。(中略)

 これが宗助と御米の過去であった。 』

 たった一頁弱の抽象的な表現でほぼ全てを悟らせる漱石の巧さ、もちろん「それから」という下敷きがあってこその事ですが、深い感銘を受ける文章です。
 その報いだったのか、御米は三度懐妊して三度とも流れてしまうという不幸に見舞われます。それ以後病弱になるとともに、宗助への引け目ともなっています、そのあたりの機微も漱石はさりげなく諸所にちりばめて書いています。

 そして後半、思いもかけぬところから過去の亡霊が現れ、宗助は逃げるように鎌倉の禅寺へ一週間の修行に出かけます。ちょっと夢十夜の「第二夜」を思い出すような老師から「父母未生以前の本来の面目は何だか、それを一つ考えて見たら善かろう」という公案を提出されますが、自分たちの過去に正面から相対することのできない者がろくな見解(けんげ)を提出できるわけもありません。

『 自分は門を開けて貰いに来た。けれども門番は扉の向側にいて、敲いてもついに顔さえ出してくれなかった。ただ、「敲いても駄目だ。独りで開けて入れ」と云う声が聞えただけであった。彼はどうしたらこの門の閂を開ける事ができるかを考えた。そうしてその手段と方法を明らかに頭の中で拵えた。けれどもそれを実地に開ける力は、少しも養成する事ができなかった。』

 これがこの小説の題名となっている「門」というわけです。
 その後どんな波乱の展開がまっているか?もう古典ですのでネタバレしてもいいと思いますが、実は何も起こりません。冒頭の一節のような静かで平穏な日々に回帰してこの物語は幕を閉じます。

『 御米は障子の硝子に映る麗かな日影をすかして見て、「本当にありがたいわね。ようやくの事春になって」と云って、晴れ晴れしい眉を張った。宗助は縁に出て長く延びた爪を剪りながら、「うん、しかしまたじき冬になるよ」と答えて、下を向いたまま鋏を動かしていた。 』

 もちろん漱石の方が先ではあるのですが、まさに小津安次郎の世界を彷彿とさせます。この静かな余韻を残す物語を、私は大いに好むものです。