ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

思い出すことなど / 夏目漱石

思い出す事など

 漱石大全読破プロジェクト、6年目の明治43年(1910年)に入ります。この年は政治面では7月に第二次日露協約締結、8月に韓国併合といった大きな出来事があり、文芸面では「白樺」「三田文学」などが創刊され、漱石が序を書いている長塚節の「」が新聞連載されました。

 一方で漱石にとっては、人生最大の危機を迎えた大変な年となりました。いわゆる「修善寺の大患」です。3月には五女ひな子が生まれ、前期三部作の最後「」を3~6月に新聞連載したあたりまでは順調でしたが、ここまでの創作活動の疲労からか、持病の胃病が悪化し、6月に胃潰瘍で入院しました。
 その後修善寺に転地療養に出かけますが、そこで大吐血・下血をし、妻鏡子の説明によると「30分死んでいた」ほどの人事不省に陥ります。何とか奇跡的に持ち直した漱石は寝たまま「担架のよなもの」に乗せられたまま帰郷、その年を東京の病院で療養に充てることになります。

 ですのでこの年に収録されている小説は「」だけで、あとは「元日(漱石大全初回でデビュー済)」「東洋美術図譜」「『土』に就いて」「文芸とヒロイック」「艇長の遺書と中佐の詩」「イズムの功績」「思い出すことなど」の7編となっています。
 相変わらず自然主義への批判を展開していますが、「土」の序文などでは長塚節が予の「満韓ところどころ 」を読んで憤慨していた、と正直に書いていたりしてなかなか面白い序文となっています。土着主義の長塚から見れば、私がレビューで指摘した現地人の描写や、満鉄総裁の招きでの大名旅行なのに好き勝手な不平不満を書いている文章にイラッときたんでしょうね。それを受け流す漱石の懐の大きさもまあ立派なものですが。

 さて、「」以外で有名な作品は「思い出すことなど」でしょう。修善寺からなんとか生還して辿り着いた東京の病院で徒然に修善寺の記憶を書き綴り、各章ごとに俳句か漢詩を添えた作品です。なので内容は文字通り「思い出すことなど」です。

 今の医学のレベルからすると唖然とするような原始的な治療(と呼べるかどうか?)しか受けられなかったにもかかわらず、漱石にはまだ天命があったようで、失血性ショックから立ち直っていく様が実にリアルに描かれています。貧血と衰弱で体がびくとも動かず、手を挙げることすらままならないあたりの文章はさすがと言える漱石の筆力ですし、頭を少し動かせるようになって見る折々の花々の美しさ、修善寺の鐘の音の精密な描写もユーモアを交えて語られて興味深いところです。

 ということで、強引にまとめると

修善寺にいながら修善寺散策は全くしなかったけれど修善寺について一番よく理解した」

旅行者は漱石だった、というところでしょうか。

 章末に添えられた俳句や漢詩漱石の教養の一部を垣間見ることができて面白いです。残念ながら私の教養では漢詩の方はまあ韻をちゃんと踏んでいるなあくらいの理解しかできませんが、俳句の方は素朴で微笑ましいです。友人の子規虚子などには正直なところ比べるべくもないレベルですが、当時の心のあり様がそのまま出ていて、云わば素人俳句の見本みたいな感じ。いいな、と思った作品をいくつか挙げて終わりたいと思います。

思いけりすでに幾夜の蟋蟀(きりぎりす)
在る程の菊拠(な)げ入れよ棺の中
萩に置く露の重きに病む身かな
朝寒や生きたる骨を動かさず
腸(はらわた)に春滴(したた)るや粥の味