ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

それから / 夏目漱石

それから

【 高等遊民の破滅の物語 】

 漱石大全読破プロジェクト、少し間が開いてしまいましたが「それから」にうつります。大小説群前期三部作の中でもとりわけ評価の高い、漱石の代表作のひとつです。が、フィクションとは言え「自業自得」感が否めない物語なので、私は正直なところあまり好きではありません。

 ただ、読み物、それも新聞連載としては当時画期的に面白い作品であったろうことは容易に想像がつきます。これまで延々と漱石の文体の完成について論じてきましたが、「それから」はもう文体が安定した漱石ストーリーテリングの妙を見せた作品と言えるでしょう。新聞連載の各回ごとに読みどころを用意するツボを完全に会得した進行具合は、まさに読み始めたら止まらないノンストップ小説です。それに不倫というテーマは当時の読者にはとても刺激的であったでしょう。

 その一方で、漱石はこの小説の主人公に「高等遊民」の理想を託しています。高等遊民の定義は難しいですが、簡単に言うと金の心配をしないで芸術の探求に生涯をかけられる人間のことです。当然社会の中で生きる人間ですから、金は必要です。しかし金のために働く時人は堕落する、という信念の元に高等遊民は働きません。そのために誰かがその人のバックアップを無償でするわけです。

 この小説の主人公代助(30歳)の場合は、親が仕事に成功して財を成し、兄があとを継いでおり、金は父親が出しています。代助はそれを当たり前のことと感じる一方で世俗的な父親を嫌っています。しかし金は必要なわけで兄嫁や兄がその間を取り持ってくれて何とか不自由なく生活しているわけです。
 まあ現在の尺度で言えば金持ニートですね。で、物語はこの金持ニートが昔友人に譲った恋人を再び横恋慕するようになり、親が進める縁談との間で苦しんだ末に純愛を選んで破滅する、というベタな物語です。

 もちろん漱石のこと、芸術論はもとより、江戸風情溢れる町並みの描写と上流階級下層階級の現実、幸徳秋水らの政治活動、日糖事件の時事問題などを巧みに織り交ぜつつ、読者を飽きさせずにぐいぐいと引っ張ってはいきますが、この代助の身勝手ぶりに少々苛々させられます。

 先に述べた親が進める縁談とは、その日糖事件に巻き込まれ窮地に追い込まれている父親と兄の会社を救う目的もあるのです。散々親の世話になったのですから、人妻をあきらめてそちらを選ぶのがもう30歳にもなった大人の分別というものでしょう。それに親の会社が潰れたら自らの資金源も失われるわけです。
 加えて姦通は当時は犯罪です。ただ、申告罪で夫の訴えがないと成立しませんが、それにしても世間にばれれば完全に社会人としての信用を失い家族郎党にも害は及びます。

 以上のような条件を冷静に判断すれば当然選ぶべき道が30歳にもなってわからないか、という苛立ちがこの小説を読み進める上で常に引っかかってきます。が、これは小説ですから当然ながら社会的常識に逆らって物語は進んでいかざるを得ないんですね。このあたりが私が好きになれないところです。

 ちなみに調べてみますと姦通罪は戦後の1947年に廃止されていますが、明治時代には懲役刑に書せられる重罪でした。この小説の場合、代助が思慕したのは親友の妻であり、決断した代助はその親友との談判に持ち込んで了解を取ります。だから姦通罪は成立しませんが、その親友はもっと残酷な方法を取ります。

 そのあたりが一番の読みどころですのでこれ以上は述べませんが完全に破滅した代助は精神に変調をきたし町を彷徨いますがその周囲が全て赤に染まっていく壮絶なラストシーンは当時の読者に鮮烈な印象を与えたものと思います。

 以上高等遊民の理想が破滅していく様を漱石は冷静に見つめつつ、見事なストーリーテリングで読むものを楽しませてくれます。問題は主人公にどの程度感情移入ができるかでしょう。ちなみに人妻三千代は漱石の作品の中でも一際不幸の影を引きずった、陰の魅力のある印象的なヒロインではあります。

 そしてこの小説のテーマは次回作品「門」に引き継がれていきます。