ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

三四郎 / 夏目漱石

三四郎

 漱石大全読破プロジェクトもついに「大小説群」に入ります。大小説群は前期三部作「三四郎」「それから」「」と後期三部作「彼岸過迄」「行人」「こころ」、そして未完の「明暗」の7作からなります。
 もういいよと言われそうですが、まず文体から語りたいと思います。この大小説群の中でも特に有名な「こころ」、21世紀に入った今でも高校生の課題図書として選ばれる傑作ですが、では何故今でも選ばれ続けているのでしょうか?
 もちろん「友情」「裏切り」「恋愛」「自殺」等、現在でも通用する普遍的な文学のテーマを扱っており、人間の心の奥底に迫る漱石文学の深淵を見ることができるからだろう、というのが一般的な答だと思います。しかしその前にもっと大切なことがあります。

100年前の作品でありながら、今でも高校生程度の国語力があれば平易に読める

からなのです。あまりにも当たり前すぎて拍子抜けしてしまうと言われそうですが、これまで何度も述べてきたように、明治という時代にはまだ一般教養があれば誰でも読める文体を持った文学が存在せず、そのような文体をずっと模索し続けていたのです。そして漱石のこの大小説群の誕生こそが、平易な文章で深い思想と確固たる構成を持つ長編小説を確立した、日本の文学史においてエポックメイキングな出来事だったのです。

 もし漱石が「吾輩は猫である」「坊っちゃん」で創作活動を終わって教職を続けていたら、講談調の面白い作品を書いた明治作家で終わっていたでしょうし、「草枕」「虞美人草」の漢文調流麗体のペダンティックな小説を書き続けていたら新聞連載で読むには難しすぎて、気軽に楽しみながら万人が教養とすることのできる小説の登場はもっと遅れており、今の日本の文学界は随分違ったものになっていたかも知れません。

 随分遠回りをしてしまいましたが、今回レビューする「三四郎」は、「虞美人草」から一転して言文一致平明体となっており、当時としてはとても読みやすくかつモダンな文章で書かれた新聞小説でした。漱石大全には「三四郎予告」という漱石自身の予告宣伝文が掲載されています。短いですから引用してみましょう。

『  田舎の高等学校を卒業して東京の大学に這入つた三四郎が新しい空気に触れる、さうして同輩だの先輩だの若い女だのに接触して色々に動いて来る、手間は此の空気のうちに是等の人間を放す丈である、あとは人間が勝手に泳いで、自づから波瀾が出来るだらうと思ふ、さうかうしてゐるうちに読者も作者も此この空気にかぶれて是等の人間を知る様になる事と信ずる、もしかぶれ甲斐のしない空気で、知り栄えのしない人間であつたら御互に不運と諦めるより仕方がない、たゞ尋常である、摩訶不思議は書けない。 』

漱石らしい人を食ったような文章ですが、実際そんな感じの(その後の作品に比べれば)比較的軽い青春恋愛小説です。それ故に大小説群の中では軽んじられることも多いのですが、これまで述べてきたように平明な文体の確立、登場人物の個性と新旧の思想の対比、そして小説としての確固たる構成と三拍子揃った佳作であり、初期作品における様々な試行錯誤が結実し、その後奇跡のようなスピードで次々と傑作を発表していくことになった嚆矢とも言える作品です。

 ちなみにその読みやすさのせいか、漱石大全1909年の項には

「前年発表の「三四郎」は大好評であった」

と記載されています。では内容の検討に入りましょう。

 予告に従えば、まず漱石は「田舎の高等学校を卒業して東京の大学(あきらかに東京帝国大学)に這入つた」小川三四郎を上京の汽車に乗せます。ひょんなことから名古屋で出会った女と同宿させられる羽目になったものの一切女には手を出さず翌朝別れ際に

「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」

とにやりと笑われて「二十三年の弱点が一度に露見したような心持ち」になったり、次の列車で乗り合わせた教師風の男の

日露戦争に勝って一等国になっても富士山が日本一の名物なんだから日本はまだまだ駄目

という言葉に唖然として「これから発展するでしょう」と反論しても

「(日本は)滅びるね

と一刀両断されたりで、たしかに予告のとおり漱石の操り人形のようにして東京に辿り着きます。

 そしてその後三四郎の東京での学生生活が、東京の風景や当時の世相を克明に描写しつつ描かれていくのですが、ここからは漱石の「あとは人間が勝手に泳いで」という言葉を鵜呑みにはできません。主要な人物の登場の過程や三四郎曰くの「三種の世界」が綾なす物語の構成は実に巧妙で考え抜かれています。

 三種の世界のうち一つは母の手紙に垣間見える古いしきたりの世界。そこでは学問を修めれば帰郷して親の決めた相手と結婚して堅実な人生を送ることが正しい生き方であると信じられています。
 二番目は新しい学問の世界。件の列車中の教師風の男は広田先生という人物でこの物語では重要な役割を担っていますが、出世欲のない学級肌の第一高等学校教師です。もう一人、野々宮という三四郎の同郷の先輩である、日本では無名で世界的には有名な東大の光学の研究者。そして画家の原口などもこの範疇に入るかもしれません。
 三番目は「イプセンの女」的な現代風の新しい東京の女性たち。その代表が三四郎が惚れて翻弄されてしまう里見美禰子黒い瞳が魅力的な画家のモデルになるほどの美人で英語にも堪能という才色兼備の女性でありながら、言葉数は少なく、藤雄ほどの激情も見せず、三四郎に気があるそぶりを見せつつ結局は別の人と婚約してしまいます。その描き方は浅く、「虞美人草」でヒロイン藤尾の描写に苦心惨憺した漱石が懲りていたのかもしれません。ちなみに漱石の弟子の森田草平と心中未遂事件を起こした平塚雷鳥がモデルだと言われています。

 これら三つの世界の間で三四郎の心は揺れ動きます。古い歌謡曲ではありませんが「青春時代の真ん中は道に迷っているばかり」で、積極的にこれといった決意も行動も示せずに物語は終わります。そのあたり物足りないと言えば物足りないですが、若い頃はそんなものなのではないでしょうか。そういうどこにでもいそうな普通の学生を描いたところに世間も共感したのでしょう。

 そんな普通の物語の絶妙のアクセントとなっているのが三四郎の友達で狂言回し的な役割を演じる同級生佐々木与次郎。不真面目な学生でろくに講義にも出ない、借りた金は返さない、金ができれば馬券を買ってすってしまう、同級生は手当たり次第に友達に引き入れる、どんな偉い人にも臆せず接する、広田先生を大学教授にしようと裏であれこれ画策して失敗し当の先生から「頭の出来が不親切でろくなことをしでかさない」とあきれられる始末。でもどこか憎めない面白い輩。彼がいてこそ、この物語は精彩を放っていると言えます。
 実は漱石大全では「三四郎」の次に「正岡子規」が収録されており、与次郎を髣髴とさせるようなエピソードが色々と語られています。もちろん正岡子規そのものではありませんが、多分に彼をモデルとしたところがあるであろう男です。

 そんな普通の青春学生物語ですが漱石流のケレンはたくさん用意されています。たとえばダータファブラ(De ta fabula,自分の話と受け止めよ、ローマ詩人ホラティウス)であったり、ハイドリオタフヒア(小瓶埋葬、サー・トーマス・ブラウン)であったり。そして「三四郎」で最も有名になった言葉が「迷羊(ストレイ・シープ)」。美禰子が三四郎にたびたび投げかける言葉で、まさに本作のキーワードとなっています。

 そのストレイ・シープは一度は原口のモデルとなっている美禰子に会いに行き「あなたに会いに行ったんです」と告白しますが、彼女は少しも刺激に感じませんでした。終盤で彼女の婚約を知った迷羊は彼女に質問しますが

我はわがとがを知る、わが罪は常にわが前にあり

という言葉を聞き取れないくらいの声で囁いて別れます。これは旧約聖書詩篇に出てくる言葉です。
 
 終章で原口の描く美禰子の絵は「森の女」と題して完成し披露されますが与次郎との最後の会話はこう結ばれます。

「どうだ森の女は」(与次郎)
「森の女という題が悪い」(三四郎
「じゃ、なんとすればよいんだ」
 三四郎はなんとも答えなかった。ただ口の中で迷羊、迷羊と繰り返した。

咎と罪を知る美禰子もまたストレイ・シープだったのでしょう。