ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

坊っちゃん / 夏目漱石

坊っちゃん

 漱石大全読破プロジェクト、今回のレビューは漱石といえば誰もが先ず念頭に思い浮かべるほどの有名な作品、「坊っちゃん」です。ブクレコのレビューからの転載です。

坊っちゃんの向こう側: 敗者である「江戸っ子」の美学

 「漱石大全」を順番にレビューしてきたが、この作品を避けて通れるはずもない。

 「坊っちゃん」。言わずと知れた漱石の代表作にして明治文学の中でも最も愛され続けてきた痛快青春小説。何度もドラマ化され、派生作品は数知れず。坊っちゃん山嵐、狸、赤シャツ、野だいこ、うらなり、イナゴ騒動、マドンナ事件などは、このブクレコの皆さんなら誰もが一度は聞いたことがあるはずだ。

 それほど有名で誰もが知っている小説で今更語ることもないはずなのだが、結構この小説についても論点は多いのである。以前レビューしたことがある小林信彦氏の「うらなり」は「何故坊っちゃんは他人のいざこざであれだけ張り切っているのか」という疑問が根底にあったそうだ。もちろんあとがきであれだけ詳細な漱石論を展開している小林氏にとってその答えは簡単に見透かせていたはずであるが。

 坊っちゃんに関する実際論じられてきた問題点をいくつか挙げてみよう。

1: 坊っちゃんには何故名前がないのか?(当然名前を出すところでも「某氏」となっている)

2: 何故漱石はこれだけの小説をわずか10日間あまりで一気呵成に書き上げられたのか?(締め切りが近く、高浜虚子に松山弁を添削してもらわなければいけなかったという事情はあったにせよだ)

3: 何故漱石はこのような江戸弁を駆使した闊達な口語体を簡単に捨て去り、それ以後「草枕」「虞美人草」等でみられる漢文調の文体に変わったのか?(実際この語り口に近い作品は「猫」以外皆無で漱石の作品の中では特異な作品なのである)

4: 何故松山をど田舎だ、野蛮だ、不浄だとあれほど貶すのか、貶された松山の人は何故いまだに坊っちゃんの湯だの、坊っちゃん団子だの、坊っちゃんを愛して止まないのか?(あのイナゴ事件は本当にあった話で漱石は本当に松山暮しや教師職が嫌だったらしい、一方松山の人は鷹揚だからと言うのが松山市の公式見解らしい)

5: 何故それぞれの登場人物のモデル探しが過熱したのか?(驚いたことに殆どの人物に候補がある、しかし漱石は「文学士は自分しかいなかったのだから赤シャツが私であらねばならないはずだ」ととぼけている)

6: 高浜虚子の添削は方言にとどまらず文章にまで及んでいるが、漱石はそれでよかったのか?(当初は急ぎで作られたためのミスだと思っていたらしい)

7: そして小林信彦氏が指摘したように、何故あれほど張り切って自分とは関係のないいざこざにかかわり、山嵐の応援をして赤シャツや野だいこに制裁を加えたのか、校長たぬきの昇給を断り、制裁の後さっさと辞めて東京へ戻っていったのか?

 少し注釈も加えたが、それぞれに様々な評論や意見がある。それら全てを受け入れていては訳が分からなくなってしまうが、もつれた糸を解くような記載が「漱石大全」にはある。「1906年漱石」の2月の項である。

大学から英語学試験委員を委嘱されたが辞退した(この教授会とのいざこざに漱石は憤慨し、これに松山時代の体験を加えて、「坊っちゃん」が構想された)。」

この簡単な文章から見えてくるのは、

これでも元は旗本だ、旗本の元は清和源氏で、 多田の満仲の後裔だ」(坊っちゃんの台詞)

という江戸っ子漱石(実際夏目家も多田氏の末裔である)の薩長藩閥の政財官学支配への鬱憤がこの一件で一気に爆発した、という構図だ。

 漱石薩長を嫌っていたというのはほぼ間違いない事実である。そして今でも「江戸っ子」とは言っても「東京っ子」とは言わないように、当時の生まれついての東京人は「将軍のお膝元」という誇りと「官軍」に維新の際に蹂躙されそれ以後も田舎者に支配され続けたコンプレックスを抱き続けていた。

 そこへ東京帝国大学でのこのいざこざだ。当時胃病と精神衰弱で苦しんでいた漱石の癇癪が一気に爆発した。恐ろしい勢いで「坊っちゃん」執筆に没頭した。
 坊っちゃんは「江戸っ子」の総体で名前は要らなかった、あるいは明らかに漱石を思わせる教職や名前はさすがにまずかった。たぬきや赤シャツは学閥をも支配している薩長の典型的人物像のカリカチュアだった。小難しい言葉を並べて腹の中が読めないたぬきは薩摩、キザで饒舌で裏のある赤シャツは長州の典型像だったらしい。そしてそのような権威にこびへつらう東京人を漱石は憎んだ。そう、野だいこである。野だいこの

あのべらんめえと来たら、勇み肌の坊っちゃんだから愛嬌がありますよ

という時の「坊っちゃん」は下女清(きよ)が呼んでくれた「坊っちゃん」とは180度逆しまな侮辱的な「坊っちゃん」である。

 一方で唯一人の味方である山嵐は、これも官軍に蹂躙された「会津」の出だ。同じ負け組みとしての連帯感があっても不思議ではない。
 そしてぼろくそに貶された松山には気の毒だったが、愛媛県の向かいは山口県だし、うらなり君が行く宮崎県の隣は鹿児島県だ。

 というわけで「坊っちゃん」が出来上がった。もともとこんな小説ばかりを書きたかったわけではない漱石は、その有り余る教養を今度は漢文調の文体の完成に注ぎ込む。だからこのような口語体はこれ一本でたくさんだったのだ。
 文体文体とこだわりすぎだと言われそうだが、まだ二葉亭四迷が口語体の「浮雲」を書いて間もない時代、どのような文体で小説を書くかは当時の文人にとって至上の命題だったのである。

 大事なことを忘れていた。両親も愛想をつかせたほどの乱暴者で無鉄砲な「某氏」を「坊っちゃん」と呼び、「あなたは真っ直ぐでよいご気性だ」と一生愛してくれた下女清(きよ)である。古き良き江戸時代の象徴として彼女ほどふさわしい人物像はない。坊っちゃんはこの文章で幕を閉じる。

死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めてください。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。

 最後の「だから」を井上ひさし氏は日本語で一番美しい「だから」の用例だとおっしゃっていた。

 だから「坊っちゃん」は傑作なのである。