ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

趣味の遺伝 / 夏目漱石

趣味の遺伝

 「漱石大全」の1906年明治39年)分を読み終わりました。収められているのは

趣味の遺伝」「坊っちゃん」「草枕」「落第」「二百十日」「自然を冩す文章」「鈴木三重吉宛書簡ー明治39年

の6作品と1書簡集です。この年漱石は引き続き「吾輩は猫である」の連載を続け好評を博していますが、「坊っちゃん」「草枕」「二百十日」といった初期代表作を矢継ぎ早に著しています。この三作品については別にレビューしたいと思いますが、今回はそれ以外の作品として「趣味の遺伝」を取り上げたいと思います。

 実はこの変な題名と後半の取ってつけたようなストーリーは漱石一流のカムフラージュで、実は日露戦争の犠牲者とその家族への挽歌がその本質なのです。

 例えば親友の正岡子規などは「坂の上の雲」などでも知られているように、自身が結核を患っていたにもかかわらず日清日露戦争が始まると積極的に戦線に参加しようとして従軍記者として戦地に赴き、その結果大量喀血し病状を悪化させてしまいました。
 一方の漱石は目に見えるような戦争に対するアクションを賛成にせよ反対にせよ起こした節がありません。もちろん東京帝国大学で教鞭をとっていたという事情もあると思いますが、そのあたりを知る資料は寡聞にして知りません。しかし、この作品ではかなり大胆に戦争に対する嫌悪感を顕わにしており、漱石という人を知る上での貴重な資料として、その価値は高いと思います。

 冒頭は漱石である「余(よ)」の空想から始まります。

『 陽気の所為で神も気違になる。「人を屠りて餓えたる犬を救え」と雲の裡より叫ぶ声が、逆しまに日本海を撼(うご)かして満洲の果まで響き渡った時、日人と露人ははっと応えて百里に余る一大屠場を朔北の野に開いた。』

 当時としてはかなり刺激的な文章です。その後も「「肉を食(くら)え」「肉の後には骨をしゃぶれ」といった語句が続きます。

 そして「余」は新橋の停車場で凱旋する兵士を迎える群集に行き会い、「犬に喰い残された者の家族と聞いたら定めし怒る事であろう」と思いつつ場内に入って行きます。
 そして帰還した将軍の風貌に「遼東の風に吹かれ、奉天の雨に打たれ、沙河(しゃか)の日に照り付けられれば大抵な者は黒くなる」と感慨を覚える一方で、「万歳」を唱えようとしても

「小石で気管を塞がれたようでどうしても万歳が咽喉笛へこびりついたぎり動かない。どんなに奮発しても出てくれない。」

と万歳を唱えられない自分に名状しがたい波動が込み上げてしまい、二雫ばかり涙します。そして万歳の波から思いは戦場の「吶喊(とっかん)」に移っていきます。

『このワーには厭味もなければ思慮もない。理もなければ非もない。詐りもなければ懸引(かけひき)もない。徹頭徹尾ワーである。結晶した精神が一度に破裂して上下四囲の空気を震撼させてワーと鳴る。万歳の(、)助けてくれの(、)殺すぞとの(、)そんなけちな意味を有しておらぬ。ワーそのものが直ちに精神である。霊である。人間である。誠である。(カッコ内は私の注釈)』

 これが「余」が将軍を見て流した二雫の涙の理由だと述べています。
 そしてその後も万歳の波は続き、行進を眺めていた「余」は年の頃なら二十八九の軍曹の元に六十ばかりの婆さんが飛んできていきなり袖にぶら下がる光景に出くわします。おそらく母さんなのでしょう。それを見て旅順で戦死した「浩さん」のことを思い出します。

 ここで第一章が終わり、第二章冒頭では日露戦争でも一際悲惨な旅順の戦場のありさまと数多の日本兵の戦死の場面が描かれます。当然資料などを元にした漱石の空想であると思いますが、目を背けたくなるような悲惨な文章です。

 そこで思い立った「余」は、「浩さん」の遺髪が埋葬されている寂光院にお参りに出かけ、「浩さん」の墓に向かって合掌している美しい女性に出会います。
「余」はその後その女性の身元捜しに奔走し、ついにその素性と「浩さん」との関係を突き止めます。その推理の元になっているのが「遺伝の法則」なのですが、このあたりは正直なところここで論評するには及びません。漱石もおそらくは余計なことをだらだらと書いて自分の真意を韜晦したかったのでしょう。

 「趣味の遺伝」という題名に隠して彼が本当に書きたかったのは第一章の感慨と、下記のような思いだったのではないでしょうか。漱石の率直な戦争犠牲者と遺族への思いに触れることができる見逃せない作品だと思います。

『 ステッセルは降った。講和は成立した。将軍は凱旋した。兵隊も歓迎された。しかし浩さんはまだ坑から上って来ない。図らず新橋へ行って色の黒い将軍を見、色の黒い軍曹を見、背の低い軍曹の御母さんを見て涙まで流して愉快に感じた。同時に浩さんはなぜ壕から上がって来んのだろうと思った。浩さんにも御母さんがある。(中略)もし浩さんが無事に戦地から帰ってきて御母さんが新橋へ出迎えに来られたとすれば、やはりあの婆さんのようにぶら下がるかも知れない。それを思うと可哀そうなのは坑を出て来ない浩さんよりも、浮世の風にあたっている御母さんだ。塹壕に飛び込むまではとにかく、飛び込んでしまえばそれまでである。(中略)軍曹の婆さんではないが年寄りのぶら下がるものがない。御母さんは今に浩一が帰って来たらばと、皺だらけの指を日夜に折り尽してぶら下がる日を待ち焦がれたのである。そのぶら下がる当人は旗を持って思い切りよく塹壕の中へ飛び込んで、今に至るまで上がって来ない。』