ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

写字室の旅 / ポール・オースター作、柴田元幸訳

写字室の旅
 ポール・オースターの作品を着実に訳し続ける柴田元幸氏の今回の新刊は「写字室の旅」です。

 原題は「Travels in Scriptocrium」で、これをレビューしたのがいつだったかな、と調べてみれば2008年でした。そのときの印象はあまり良くなくて

ポストモダンの不条理の居心地の悪さと後味の悪さ

が残る作品であると、はむちぃ君と語り合っておりました。

 ポストモダンの時代からはるかな時間が流れた現在、これはポール・オースターの再挑戦なのか、自虐的読者サービスなのか、売れ線を狙った出版社のプッシュだったのか?

 いろいろな憶測は可能ですが、とりあえずあまり面白くはなかった(苦笑。

『 彼はどこに行くのか。どこにいるのか――未来を巡る、新しいラビリンス・ノベル。奇妙な老人ミスター・ブランクが、奇妙な部屋にいる。部屋にあるものには、表面に白いテープが貼ってあって、活字体でひとつだけ単語が書かれている。テーブルには、テーブルという言葉。ランプには、ランプ。老人は何者か、何をしているのか……。かつてオースター作品に登場した人物が次々に登場する、不思議な自伝的作品。 (AMAZON解説より)』

 今回の柴田氏の文章も、オースター・ファンからの信頼も厚い端正で衒いのない、良い意味で訳者の個性を出さない文章でした。物語が奇妙なプロットである上に地の文章がほとんど現在形で語られるという、いささか読む者に居心地の悪さを感じさせる原文を上手くまとめておられました。

 とはいえ、傑作「The Brooklyn Follies」と「Man in the Dark」にはさまれたこの作品は彼の一連の作品の流れの中でとても奇異な印象を受ける作品です。
 ペイパーバックにして130P程度と近年の彼の作品にしては非常に短く、果たしてこれはまともな小説なのか、オースターファン用のサービス冊子程度のものなのか判然としないような内容なのです。

 というわけで内容は分かっているのでまずはあとがきを読んでみたのですが、柴田氏も

「作中に過去のオースター作品からの細部がいくつも盛り込まれているので、オースター・ファンでないと面白さが十分に分からない」
「一連のオースター作品を読んでいない読者には、一連のオースター作品を読んでいる読者のような分かり方はできない」

という批判は承知されています。その上で、「逆にオースターの作品を知らない作者にはこの本はかなり違った、独特の謎をはらんだ作品のように読めるのではないか」と書いておられます。

 そういう見方も否定はできないものの、氏には悪いですが、いささか苦しい強弁のように思います。オースターの過去の作品を知らない人が読めば、気持ち悪いうえに、わけがわからないうちに終わってしまうだけの話でしょう。

 とりあえずポストモダン的な本作の重層構造を解析してみましょう。

1: 「Mr.Blank」と名づけられた健忘症の老人は過去のオースター作品の登場人物とおぼしき人たちに何らかの命令を下す立場だったらしい。要するに老いてぼけて「一物」以外は弱りきった未来のオースター自身である。

2: 殆どの場合その命令が悲惨な結果を招き、部屋の外の世界には彼を様々な罪で告発し死刑を求めている人々も多く存在しているようだが、部屋で老人に直接接する人物は敵意や憎しみよりもむしろ愛情や憐憫を感じているようである。特に「最後の物たちの国で」の主人公アンナ・ブルームは彼を愛しているという。

3: 過去作品の登場人物のその後の人生について、その人物自身が語る場面がある。

4: 老人はある書きかけ小説原稿を元に見事なプロットを考え出す。(小説中小説はオースターの得意技)

5: そして最後に発見したもっとも重要な原稿は「Travels in the Scriptorium」(by N.R.Fanshawe)であった。ファンショーは「鍵のかかった部屋」の重要な登場人物である。

6: おまけに題名の「Travels in the Scriptorium」は初出ではなく傑作「幻影の書」に既に出ている。

 要するに「幻影の書」に出てきた「マーティン・フロストの内なる生」が実際に映画化されたように、オースター自身も「マーティン・フロストの内なる生」の主人公の著した「Travels in the Scriptorium」を世に出したくなった(あるいはそういう要望が多かった)のではないでしょうか?

 そして、どうせ小説化するなら、もっとも好きな登場人物であるアンナ・ブルームに幸せなその後を与え、自分の分身のように感じているファンショーの作品であったというどんでん返しで最後を締めくくりたかった、というところではないでしょうか。

 ということでポール・オースター・ファンであればたしかににやりとする小説ではあるのですが、内容にはあまり期待しないほうが良いほうが良いと思います。

 ただ、柴田氏があとがきに書いておられるように、小説中小説の戦争物語が次作の「Man in the Dark」に通じるものがある、ということは否定しません。

 もちろん次作「Man in the Dark」のほうがはるかに深く、ブッシュ政権の批判と9.11へ再び向き合うとともに、家族の再生を描いた傑作であるので、柴田氏訳の完成を期待しています。というか、本作をすっ飛ばして「Man in the Dark」を先に訳してほしかったというのが本音であるのですが。。。