ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか / 辺見庸

しのびよる破局  生体の悲鳴が聞こえるか (角川文庫)
 辺見庸の「しのびよる破局」が文庫化されたので読んでみた。彼は2004年に左脳出血を発症し、当時失見当識があり、今も完治はしていないと自ら感じている。そして今も右半身が不自由である。その上その後二回癌を患っている。その彼が現代資本主義の腐敗が人間の内面までを崩壊させるという洞察をTVで発言し著書に著す。右手の不自由な彼は携帯で原稿を打って送っているらしい。そのせいか、文章自体は平易である上にやたらひらがなが多い。しかしその見せかけにだまされてはいけない。内容はおそろしく深く先鋭で、言い様のない怒りに満ちる一方で自虐的なまでの自省にも満ちている。これだけの文章を書かれると日々このようなブログを綴っている者としては忸怩たる思いに駆られずにいられない。

『世界同時不況、格差と無意識の荒み、価値観の破壊、扁平なデジタル化、パンデミック、温暖化―様々な危機が重層的に拡大している今、私たちは何を目指して生きていくのか。いまだかつてないこの奈落の底で人智は光るのか否か。著者は、資本主義・民主主義の末期的実相に迫り、悪の正体をつかみ、より深い思索へと切り込んだ。道なき道の光明となる強靱な提言の数々。NHK番組ETV特集の独白に加筆した衝撃の名著。(AMAZON解説より)』

「人間とはいったいなにか。人間とはいったいどうあるべきなのか。(中略)本当に取りもどさなければならないのは、世の中でいわれているような経済の繁栄なのか、ぼくはうたがわしいとおもっているのです。また以前のような経済の繁栄をとりもどすということがわれわれの至高の目標であるべきなのか。そうではないとおもうのです。」

 2009年の金融恐慌新型インフルエンザなどの「パンデミック」にまず著者は言及する。そしてその垂れ流し的な報道を「自省がない」と切り捨てる。問題は外的社会の修復(だけ)ではない。人間の内面での崩壊という破局が同時進行している事が真の問題なのだと。そしてその内面での崩壊を「生体の悲鳴」と表現する。それがこの本の副題になっている。

 派遣者切りに代表されるような人を機械の部品のように使い捨てる高度資本主義人間の生体にとって外在的なシステムであるにとどまらず、内在的な心的メカニズムになってしまった。そして現実には「プレカリアート」という徹底的非受益者群を生み出した。そのような事態がじわじわと人間の内面を蝕み人格を崩壊させていくのではないか、という著者の指摘は重い。著者は資本主義を端的にこう表現する。

「人々を病むべく導きながら、健やかにと命じるシステムである。」

 しかしそれに気づく人は少ない。マスコミや我々自身がそのような人間の価値観の破壊に慣れてしまっている。これが怖い。年間三万人以上の自殺者が出る国は尋常じゃない。著者は言う。

「これは「人間の内面」の戦争ではないか。」

まさに正鵠を得ている、と私は思う。

 ---------------------------------------------------------------------

「犯人は捕まったけれども”真犯人”がわからない」

 2009年時点での「パンデミック状況」の予兆として、前年に起こった秋葉原無差別殺傷事件に著者は執着する。犯人の心象について思いを巡らせる。犯人が日常的にやっていた事は携帯でゲームをする事。彼にとって世界の切り口がモニター画面でありそこには現実世界の「マチエール」がない。携帯やネット時代以前にあった質感、手触り、痛覚での交感が不可能になっている時代なのではないかと著者は推察する。
 そのような青年たちが使っている言葉に「リア充」(リアルな生活が充実している人)がある。そのような言葉を使いながら多くの青年たちはそうではなく、内面に荒涼たる風景をもっている。あの犯人の青年が特殊な人間であった分けではない。あの青年は、あの青年でなかったかもしれない。

「被害者と加害者の究極的な等価性」

 つまり今の社会は人間の生体にあっていないのではないか。それが著者の仮説。私も手前味噌ながら映画「悪人」のレビューで、はむちぃに携帯が現代の必要悪で実は人間の生体にあっていないのではないかという危惧を語らせたことがある。辺見庸の深い文章に比べれば月とスッポンほどの違いはあるにせよ、通底するところはあるのではないかと少し思った。

  ----------------------------------------------------------------------

「かつてあったことは、これからもあり/かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何一つない(新共同訳)」

 このような閉塞的状況下でファシズムは実に魅力的な顔をして登場する。旧約聖書の「コヘレトの言葉」に上記のような一節がある。

 だから本当に取りもどさなければならないのは、経済の繁栄ではないのではないか。人間的な諸価値の問いなおしではないのか。と著者は訴える。一見現実世界の復興としては迂遠に思える思考だが、少なくとも経済経済と唱え続ける政治家、経済界、マスコミはそう言う警戒心を持ちながら自省する必要はあるだろう。

  ---------------------------------------------------------------------

 「カミュはペストそのものの病理を描きたかったのではなかったのでしょう。人間社会の「絶対悪」というものをペストに背負わせたのだとおもうのです。」

 著者はカミュの「ペスト」を頻繁に取り上げる。特に当時のマスコミを含めて人々がペストという恐ろしい悪疫に鈍感であった事を指摘する。ペストで慄然とせざるを得ないのは

「これから悪いことが起きるというのはじつはまちがいであって、いままさに起きているのだ」

ということ。日常がコーティングされてしまえば、今日は昨日の続き、明日は今日の続きというイナーシア(慣性)が常に支配して行く。それは今日の世界にも当てはまる。更に始末が悪いのは「ペスト」のような絶対的な「」というものが見えない事。

「いまは、悪が悪の顔をしていない。善の顔をしている。」

 著者はマスコミが体制側に組し、このようなコーティングにより真の巨悪を許していることを嫌悪する。 浮浪者が食べ物を漁って街を彷徨っているのに大食い競争やグルメ旅行の番組をやっている。「年越し派遣村」の報道にも疑問を呈する。

  「片や派遣社員を切る会社があれば、片やそれを救う人達も居る。そんなふうに、ああした現象を『善意の物語り』のようにまとめ上げる報道に違和感を感じてしまう。」

 彼が糾弾するのは政治家や労働組合やマスコミの心根の卑しさ。更にはそれらの報道を安全な場所から傍観している人々。そこにある巧妙なコーティング。もちろんその対極にある人々への賞賛も怠らない。

    ---------------------------------------------------------------------

    「日曜のたびにでてきて、長年山谷で炊き出しをずうっと黙々としてきた人を知っています。そういう人は前面には絶対に出てこないし、あまりヘラヘラしゃべらない。新聞やテレビなんかにちゃらちゃらでてこない、無口です、総じて。人にえらそうに説諭しない」

 著者はこれを「陰徳」と表現する。そして先ほど批判した年越し村にももちろん陰徳があったと言う指摘も忘れない。

 しかし「腐った資本主義」の世界で陰徳は絶滅危惧種である事も鋭く指弾する。人間が持つべき徳が商品化されている。TVコマーシャルのように下心のある徳ばかりが幅を利かせている。例えば生命保険の宣伝のために高名な詩人が文章を寄せる。

「これほど恥ずべきsinはない。僕はあれほどひどい罪はないとおもう。あれは正真正銘の”クソ”なのです。(中略)そう思わない人はしょうがないけど、ぼくはおもわないということが怖いのです。」

 ズバリ日本生命のCMの谷川俊太郎。賛否両論はあると思うが、私はあのCMに罪を感じとる著者の感性、洞察力を支持したい。

  --------------------------------------------------------------------

 いくらCMのないNHKだからと言ってもこれだけマスコミにとって過激な内容をよくぞ放送できたものだと思う。辺見庸氏とNHK関係者に心からの賞賛を送りたい。そして辺見庸氏が「あくびが出るくらい退屈な真理」だと思う言葉を掲げて〆としたい。

ペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです。カミュ「ペスト」の医師リウーの言葉)」