ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

怒り / 吉田秀一

怒り(上) (中公文庫)怒り(下) (中公文庫)

 吉田修一を読むのは「悪人」「さよなら渓谷」に次いで三作目です。何故そうはっきり言い切れるかというと、彼の作品は映画を観た後でしか読んだことがないからです。ということで、今回も映画「怒り」を観て深い感銘を受け、早速読みました。

 今回吉田修一がモチーフとして選んだのは「市橋達也事件」です。衝撃的な殺人で、早い段階で犯人が特定されていたのに取り逃がし、長期逃亡を許す。マスコミをさんざん賑わすも一年以上行方が杳として知れない。実は整形していたと判明、その写真を流したところ通報があり急転直下逮捕となった事件でした。

 犯人と捜査陣の手に汗握る逃亡追跡劇にしてもよかったのでしょうが、吉田修一は別の手法を選びます。三人の容疑者を設定し、それぞれの置かれた状況を描くことにより、日本社会に燻り続ける理不尽な状況に対する行き場のない「怒り」という感情を文字に置き換えようと試みたのです。実際に考えた容疑者は10を超えていたそうで、その中から選ばれた三人だけに読み応えがありました。

 上巻では事件の概要とそれを追いかける刑事二人北見と南條、そして三人の容疑者のいる場所・状況がテンポよく描かれていきます。

 作者が設定したのは、何の罪もない八王子の夫婦が自宅で殺害されるという悲惨な事件で、容疑者は山神一也。切れ長の一重の目、頬に三つのほくろ、左利きが特徴。蒸し風呂状態の殺人現場には「怒」という血で書かれた文字が残されていました。

 そして三人の容疑者とその舞台。

#1: 大都会東京: 昼はエリートサラリーマンで、癌末期の母をホスピスに頻繁に見舞う常識的な社会人優馬。しかし夜の顔は狂騒的なゲイの世界で遊びまくる同性愛者。彼が発展場でセックスした直人を自宅に同居させるようになり、少しずつ彼の人生観が変わっていく。しかし直人が何者なのかは分からない。この直人が第一の容疑者。

#2: 房総の港町: 漁協で働く洋平は妻を亡くし、娘の愛子と二人暮らしだが、その愛子は軽い知的障害があり、ふらりと東京へ出かけては悪い男に騙されて歌舞伎町のソープランドで酷使される。NGOの協力で何とか連れ戻すことができた帰路から話は始まる。閉鎖的な田舎のコミュニティなので、そういう不行跡の話はみんな知っている。こんな娘が幸せな結婚なんてできるはずがないという思いとなんとかさせてやりたいという思いが心の中でいつもせめぎあっている。そんな折り、この港町にふらりとやってきた若者田代は洋平の口利きで漁協のバイトをして暮らし始める。連れ戻された愛子とこの田代がしだいに近づいていく。この田代が第二の容疑者。

#3: 沖縄: 沖縄はやはり特別な事情を抱えている。言うまでもなく基地問題だ。離島の旅館の息子の高校生辰哉は、父が基地問題に熱心なあまり、しょっちゅう家を空けたり、何時間も基地問題について熱く語って客を辟易させたりすることに複雑な思いをもっている。というか、嫌がっている。一方、だらしない母のせいで流れ流れの生活の果てにこの島に転校してきた少女泉。辰哉はひょんなことから泉を無人島へ連れて行ってやることになるが、そこで泉は廃墟に暮らす男、田中と知り合う。彼は那覇でバイトをしては戻ってくるという生活を繰り返している。この田中が三人目の容疑者。

 現代日本のもつ不条理とくすぶり続ける不満を、都会、田舎、沖縄という三か所を描くことにより、象徴的に書き分けてみせる作者の筆致はさすがです。

 三人の容疑者の誰もが犯人であってほしくないと願ってしまうほど、上手くそれぞれのコミュニティに馴染んでいく様が上巻では描かれます。そして沖縄で不穏な空気が漂い始めるあたりで終了。

 下巻に入ると、一年以上逃亡を許し、重い空気の漂う警察。特に担当の北見には疲労の色が日に日に濃くなっていきます。とともに、映画では全く描かれなかった、飼い猫の世話をしてくれる女性との私生活も控えめな筆致で描かれ、一人の人間としての北見も垣間見せます。

 そしてある日関西の美容整形外科から確実な情報が入り、殺人逃亡犯山神一也が一重を二重に整形していたことが判明、写真も提供され、TVの公開捜査番組でも放映され、途絶えかけていた情報提供が一転してまた多数集まり始めます。

 その一つ一つを潰していく北見たちですが、なかなかホン星にヒットしない。そんな情報の中に、房総の港町にやってきた男、田代の名前もありました。情報提供者は田代と同居するようになっていた愛子。何故、彼女は警察に電話をしたのか、父親洋平は二人で暮らし始めた田代と愛子を何故とことんまで信用してやれなかったのか。北見の指紋鑑定の報告に赤子の鳴き声のように張り裂けるような大声をあげて泣く愛子。映画でも一二を争う見所の一つで、久々に宮﨑あおい渾身の演技を見せつけた場面。心に残ります。

 一方、ホスピスに入院していた母が亡くなった空虚感を抱えていたある日、喫茶店で女性と談笑していた直人を見かけた優馬の心に陰がさします。更には頬の三つほくろが気になり始め、「まさかお前が犯人じゃないよな」と口走ってしまう優馬。そんなある日突然直人が失踪し、しばらくして上野警察から電話が入ります。同居していたゲイの男が殺人犯だと世間にばれたら自分の未来はない、と思わず白を切ってしまう優馬。果たして真相は?最後に優馬は泣きます。

 一方沖縄の離島では、上巻で高校生の辰哉と泉の那覇でのデートの後にある事件が起こり、そのため埋めきれない溝が出来ていました。互いが互いのことを気遣いつつもどうしていいかわからない二人。そんなある日、辰哉はあの無人島に那覇での夜一緒に食事した田中が帰ってきたことを知り、自分の旅館で働かないかと誘います。下巻では田中はそこで働き始め、皆に重宝がられますが、皆の見ていないところでは粗暴な一面を見せます。それを見てしまった辰哉に田中は実は二人に降りかかった厄才を見てしまったのだと告白、そして俺はお前の味方だ、と励ますのです。辰哉は田中を心底信じていきます。

 そして犯人に関しての決定的な証言がある傷害犯の取調べ中に飛び出し、そこから情報を洗い直し、犯人の居場所がほぼ特定されます。東京か、房総か、沖縄か、犯人が殺人現場に残した「怒」の文字の意味は何か?尋問を受けた男は語ります。

まあ、一般人が見たって気づかないだろうけど、見る奴が見れば人殺した奴の顔なんて一目で分かりますって。
「・・・要するに、そういう、なんていうか、生と死っつうんですか、その境があいまいな奴ってもう終わってますよ。(中略)そういう奴に限って、苛つきだすと何やるかわかったもんじゃないでしょ?

 そしてその後の息詰まるような展開の中、あと一歩で犯人に辿り着く北見たちを絶望させるような思いもかけない事件が突発してしまいます。

 さすがの筆力で吉田修一はこの物語を描ききりました。ただ、映画を観てしまったものとしては、その映像の見事さ、李相日監督の煮えたぎるような情熱、各俳優渾身の名演技(特に森山未來宮崎あおい)に圧倒されてしまったあとだったので、この意欲作がむしろ淡々と書かれている印象さえ持ってしまいました。
 原作も映画もきわめて優れたものだと思いますが、以上の理由でどちらかと言えば原作を先に読むことをお勧めします。