ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

ナイン・ストーリーズ / サリンジャー、野崎孝訳

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)

 先日レビューした「フラニーとズーイ」の作者、J.D.サリンジャーの短編集「ナイン・ストーリーズ」です。訳は野崎孝氏、久々に本棚から引っ張り出してきました。

 1953年にサリンジャーはそれまで書いた29編の短編小説の中から9編を選び、発表年代順に配列した短編集を発表しました。あとの20編はことごとく捨て去り、現在本国アメリカでは読むことができません。不思議なことに日本では荒地出版社というところから全集が出ていて読むことができます。

 閑話休題、東洋思想に染まっていたサリンジャーエピグラフ

両手の鳴る音は知る。片手の鳴る音はいかに?

という禅の公案で始まるこの九つの物語はさすがに選び抜かれただけあって面白い。野崎孝氏の訳もさすがに時代を感じさせるところはあるものの、今でも全く古びることのない名訳です。では寸評を。

バナナフィッシュにうってつけの日
 グラース家の五男二女の長兄シーモア・グラースを描いたあまりにも有名な作品。グラース家サーガの嚆矢にして、衝撃的なサリンジャーの代表作。シーモアがビーチで友達になった少女に語るバナナフィッシュ、そして少女が「見つけた!」というバナナフィッシュ、その謎は「シーモアー序章」に引き継がれていきます。

コネティカットのひょこひょこおじさん
 大学を中退した二人の女性のうだうだ話。その中でちょこっと語られるグラース家の戦死したウォルトの話が切ないです。

エスキモー戦争の前夜
 サリンジャーが自分の事を「若い人を書く」作家だと自称した通り、高校生の女性友達二人とその兄やら友達やらが出てくる散文的な話。無理やり解釈しようとすると結構難解な話です。イカレポンチなんて時代を感じさせる表現ですが、この時代にもうバンドエイドがあったんだと驚きます。

笑い男
 少年野球団の団長が語る中国に連れ去れさられた「笑い男」の話と、団長の美しいガールフレンドの活躍と二人の別れが、野球団の少年の目を通して語られるちょっとものさびしい物語。ラストシーンがちょっと怖くて美しい。日本を代表するアニメ「攻殻機動隊」にでてくる「笑い男」はこの作品が原典。

小舟のほとりで
 感受性の強い子供を描くのがサリンジャーは好きでした。ここに出てくる子供はライオネルという名前で別荘の湖の小舟の中でストライキをしています。そしてその母親は、ブーブー・タンネンバウム。彼女はグラース家の長女です。グラース家の七人兄弟姉妹はみんな「It's a Wise Child」というラジオ番組に出た天才秀才ぞろい。さすがの知性とウィットでライオネルの心をほぐしていきます。

エズミに捧ぐ - 愛と汚辱の物語
 ナイン・ストーリーズの中でも際立った作品。グラース家サーガを除けばサリンジャー最高の傑作短編だと思います。ロンドンに滞在していたノルマンディー上陸作戦に参加するアメリカ人小説家と教会のコーラス隊の少女エズミの邂逅と一時間にも満たない会話。おませな少女エズミの言葉「お身体の機能がそっくり無傷のままでご帰還なさいますように」という言葉が切ないです。作家はエズミを主人公として彼女の希望通りの「汚辱に満ちた物語」を書き上げることができたのでしょうか。サリンジャー自身がノルマンディー上陸作戦に参加していたのはほぼ間違いない事実だと言われています。

愛らしき口元目は緑
 同じユダヤ系のウッディ・アレンが映画にしそうな男と女の物語。浮気者の妻を持つ男の愚痴を電話で延々聞かされ励まし続けている男の後ろには、愛らしき口元目は緑の女性が。二回目の電話が何を意味するのかは読者が好きに想像してくれ、って感じです。

ド・ドーミエ・スミスの青の時代
 あるアメリカ人画学生が束の間モントリオールの通信教育絵画教室で働く話。サリンジャーもこんなユーモラスな話が書けるのか、というくらい笑わせてくれます。ただ、マレー系日本人ヨショト夫妻ってのは、日本文化に造詣が深かったサリンジャーにしては日本人に対する偏見に満ちているような?大体ヨショトでどんな日本語を当てはめるのか謎。青の時代はもちろんピカソの「青の時代」です。傑作「サルタンバンク」が主人公の出まかせの話の中に少しだけ出てきます。

「テディ」
 最初はこまっしゃくれた子供だなと思わせ、途中からはグラース家兄弟姉妹にも勝るとも劣らない知性の持ち主だと分かり、最後は東洋思想的な予言者となる恐るべき「Wise Child」テディ。九つの短編の中で一番の問題作。ラストが「バナナフィッシュ」に負けず劣らず衝撃的です。

 グラース家サーガ「バナナフィッシュ」で始まり、途中に最高傑作「エズメ」を配し、最後の「テディ」で最初のエピグラフの禅の公案に回帰していく見事な構成はさすがサリンジャー、ただの短編集にしていないところが凄い、と思います。今の時代に読んでも少しも色あせていない、再読、再々読に耐える名作です。