ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

死神の浮力 / 伊坂幸太郎

死神の浮力 (文春文庫)

  伊坂幸太郎の造形するキャラクタには独特の魅力があります。死神の千葉もその一人。当たり前ですが人間とは判断基準や価値観が全く異なるので、人間との会話に齟齬が生じ、それが巧まざるユーモアを醸し出すのです。

 その死神の仕事は事件事故災害などで死ぬ人間を直前の7日間調査し、そのまま死んでいいと判断すれば「」、死なせない場合には「見送り」と判断し本部に報告します。まあ殆どの場合「可」なので、大抵の死神はちょろっと観察しただけで「可」と判断してしまいますが、千葉はまじめに仕事をする主義で7日間きっちりと対象の人間と関わりあいます。

 そういう設定で数人の人間との束の間の交流を描いた「死神の精度」は好評を博し、日本推理作家協会賞を受賞し、映画化もされました。そしてこの第二弾「死神の浮力」はずいぶん前に出版されていたのですが、今回文庫本化されたので読んでみました。

 前作は短編集でしたが本作は長編で、サイコパスに娘を殺された作家夫婦が復讐を計画する物語となっています。この本を単独で読んでも十分楽しめますが、前作のエピソードも所々に出てきますし、できれば前作を読んでからの方がいいと思います。
 
 さて、そのサイコパスの若者が裁判で無罪判決となったその夜に、千葉は作家夫婦の家を訪問します。ということは、気の毒なこの夫婦のどちらかはさらに気の毒なことに一週間後には死んでしまう予定なのです。
 千葉が現れると晴れ間は来ないという設定なので余計に重苦しい雰囲気が漂ってはいますが、彼を受け入れた作家夫婦との会話に控えめなユーモアが漂います。
 例えば千葉は渋滞が嫌いですが、渋滞の最たるものは「大名行列」。実際に見ているので千葉は真面目ですが、作家夫婦には冗談にしか聞こえません。復讐心に凝り固まり張り詰めたこの夫婦の心にこんな風に束の間の安らぎを与えてくれるので、素性を疑いつつも夫婦は千葉を徐々に受け入れていきます。

 無理な設定を無理と感じさせないこの辺の手腕はさすがだな、と思いますね。そして相変わらずの薀蓄もてんこ盛り。今回は主人公の作家の好きなパスカルの「パンセ」と、サイコパスに関する考察がメイン。サイコパスは25人に1人にいるそうですが、その1人に何故ノーマルな24人が屈服してしまうことになるのか、という理論がとても興味深かったです。
 千葉は音楽が好き、という設定もそのまま。とにかくどんな切羽詰った状況でも音楽を聴きたがる。ソニー・ロリンズジャズ界の巨人だと聞いて一体身長はどれくらいあったのか、と想像をめぐらす千葉、最高です。

 さて、綿密な計画を立てたはずのサイコパスへの復讐作戦はことごとく失敗します。もちろん狡猾なサイコパスのほうが一枚上手ということもあるのですが、もう一つどうしようもない理由がありました。

ここからは少しネタバレありなので未読の方はご注意ください。

 実はこのサイコパスにも別の死神「香川」(死神には地名の名前がついています)がついていたのです。だから、まだ数日はこのサイコパスは死なないのです。おまけに香川からの情報によると、死神界にもこのごろ手違いが多く、その穴埋めをするために監査部が「見送り」を増やしたがっており、ボーナスで20年の余生を与えるというサービスぶり。
 香川はその線でいこうと、このサイコパスを「見送り」にするつもり。一方の千葉はそんなことには惑わされず、予定通りの「」でいいと思っている。

 娘を殺された方は死に、殺した方はのうのうと生き残る。こんな事でいいのか、と読者を惑わせて一体どう落とし前をつけるのか?そこが超一流のストーリーテラー伊坂幸太郎の腕の見せ所です。

 ハイライトはバンで逃げるサイコパスを雨の中後ろに作家を乗せて千葉がママチャリで追走するシーン。映画にしたら面白いでしょうねえ。

 ちょっとやりすぎの感さえある結末でしたが、十分楽しめてちゃんとカタルシスも得られる安定の伊坂品質なのでした。