さあ、「カラマーゾフの兄弟」です。泣く子も黙る世界最高峰の、それもエベレストではなく、ヒマラヤ山脈に例うべき、サマセット・モームの選んだ「世界十大小説」の一つ。
交響楽を模して三章ずつの四部構成になっている、ドストエフスキー最後にして最長の小説で、その構想と内容の凄さは圧倒的です。
ドストエフスキーの人生は波乱万丈。病的なまでに天才的な文才を持ち、農奴解放、西洋科学の流入、社会主義の台頭という激動の時代のロシアに生き、社会主義に染まりかけて死刑判決を受け銃殺寸前で恩赦となりシベリアに流刑され、その際にロシア正教に帰依したはいいが、その後も無類の浪費家でギャンブル狂で借金にまみれ、結婚離婚を繰り返し、持病の癲癇発作と肺気腫に悩みながら、幾多の傑作小説を書き続けた人間でした。
そして「カラマーゾフの兄弟」、これはそのドストエフスキーが全人生の経験と知識と哲学をこれでもかとぎゅうぎゅう詰めにぶち込んで、なおかつそれに勝るとも劣らない第二部の構想まで用意していたという、とにかく物凄いエネルギーが充溢する作品です。
かつて学生時代私は新潮文庫版のドストエフスキー作品を全て読破してから果敢に、というか自信満々でアタックしたのですが、読後の感想は一言で言うと
「つまらないようで凄いようで、とにかく手に負えない」
というものでした。キリスト教も西洋史もある程度は理解しているつもりでしたが、ロシアという風土や民族のもつ根源的なしたたかさに恐れをなしてしまったのか、それともドストエフスキーの生涯をかけた文章のエネルギーに跳ね返されたのか、まあはっきり言って見事に玉砕したのでした。
それを主人公アレクセイに満たない歳のせいにして、何時かもう一度と思いつつ年月は流れ、殺された父フョードルと同じ世代になってそろそろ読むべき時が来たと思いたちました。
が、そこで頭を悩ませたのが「亀山問題」。カラマーゾフの訳者は米川正夫、原卓也、江川卓をはじめ数名おられますが、Kindleでまともに読めるのは光文社の古典新釈文庫しかありません。訳者は亀山郁夫前東京外国語大学学長で、発売当時「読みやすくて、わかりやすい」と大ベストセラーになった一方で「誤訳が多すぎる、カラマアゾフを全く理解していない」という批判が巻き起こりました。俗に言う「亀山問題」です。
まあとにかくKindleで読めるというのが今回は絶対条件だったので、ものは試し、と亀山訳を読んでみました。やはり以前読んだ原卓也訳とはかなり趣を異にしている感がありました。ロシア語は分からないので誤訳について私がどうこう言う資格はありませんが、公然と
「流れと勢いを重視した」
とのたまっておられるのはいかがなものか?やはり翻訳というものは、正確であることが絶対条件ではないのか、とは思いました。医学的な用語については私も若干は意見する資格はあると思いますが、英語訳で「Laceration」を「錯乱」としてみたり、「おきつねさん」「神がかり」などという日本的な民間用語を使うのにはやはり違和感がつきまといました。
まあそれでも大筋としては大きな間違いは無いのだろう、と読了しました。
さすがに跳ね返されることはありませんでしたが、カラマーゾフ家の男達から発せられる得体の知れない迫力はやはり凡百の小説をはるかに凌駕しています。例えて言えば夏目漱石の「行人」の主人公の兄が大挙して襲ってくるような感覚。実際漱石はドストエフスキーを読んでいたそうですが。
第一部での野卑で好色な父フョードルの傍若無人、出てきた途端に暴れまくる長男ドミートリー(ミーシャ)の無邪気なまでの放埓
第二部での無神論と「大審問官」を延々と語り続ける次男イワンの異様なまでの興奮
第三部でいよいよ本領発揮するドミートリー、その恋狂いと金策、例の事件での動揺と其の後のモークロエでの乱痴気騒ぎ、これはまさに神聖喜劇
第四部でついに正体を現し、イワンを追い詰めるフョードルの私生児スメルジャコフと、それまで見下していたそのスメルジャコフに魂を引き裂かれ、分身の悪魔に翻弄されるイワン
しかし、これらの怪物たちを差し置いて語り手「わたし(≒ドストエフスキー)」が主人公に指名するのは三男アレクセイ(アリョーシャ)です。上記の殆ど全ての場面や女性たちの家、更には地元のこどもたちの家にも顔を出す、この心優しい男も「わたし」に言わせれば、「たしかにすぐれた人物だが」「けっして偉大な人物ではない」「変人といってもよいくらい風変わりな男」なのです。ただ、「わたし」が言うようにこの物語を読むだけではその片鱗しかわかりません。おそらくは「エピローグ」の最後を飾る名場面を共にするコーリャ少年たちとともに第二部でその真価は発揮されることになっていたのでしょう。
もちろん「カラマーゾフの血」以外の登場人物も尋常ではありません。徹底して「善」として描かれるゾシマ長老と、その死後の早すぎる腐敗に狂喜するフェラポント神父の狂気。ゾシマ長老の若かりし頃に決定的な影響を与える「謎の訪問者」。
女性陣だって負けてはいません。父フョードルと長男ミーシャを手玉に取る妖婦グルーシェニカ、ミーシャとイワンの間で揺れ最後の裁判で本性を見せるカテリーナ、純真な少女なのか小悪魔なのかこの作品だけではわからない美少女リーズ(リーザ)、とにかく脈絡もなくひたすら喋り捲るリーズの母ホフラコーワ未亡人。
神学論と恋愛小説と殺人事件が絡まった糸のように混乱を極める中で、これらの女性たちはしょっちゅうヒステリーで気を失いはするものの、意外にしたたか。小林秀雄は言います。
「女達は皆ぐっすりと眠っている事に注意し給え。」
と。
神学論に関しては、突き詰めていけば「不可知論」になってしまうのでやめておきます。ドストエフスキーが正教に帰依していたのですから「大審問官」にキリストは勝ったのでしょう、おそらくは。そしてそれはアリョーシャがイワンに勝ったということでもあるのでしょう。論じ終わった二人が小料理屋を出た後のイワンの右肩の下がりを亀山郁夫は問題にしていますが。「ファウスト」を引き合いに出すのであれは、イワンは片足が山羊であったメフィストフェレスでも、右肩に十字架を背負ってゴルゴダの丘を登ったキリストでもいい筈。それよりは私はイワンの
「お前は右へ行け。俺は左に行くから」
と言う言葉の方が象徴的だと思います。
以上、とりとめもなくなく書いてきましたが、これから読まれる方に私が忠告できる事があるとすればそれは
「安易に解題に頼らず、しばらくは自分で考えてみてください、納得できなければ再読してください、できれば「罪と罰」から順番に。」
ということ。第五巻の半分以上を占める亀山郁夫の解題は大変優れたものではありますが、それだけに一度読んでしまうと彼のカラマーゾフ観に取り込まれてしまいます。それで満足してしまうのはとてももったいないことだと思います。(Kindleでは亀山解題の図表が拡大できず、とても見にくいです、ご注意ください。)
以上本筋はミステリ小説なのに、四部構成の三部の中盤でやっと殺人事件が起こり、あっという間に犯人がつかまり、第四部で真犯人は別にいて自殺し、しかも捕まったご当人は冤罪でシベリア流刑が決まるという摩訶不思議で不完全な作品でありながら、文学史上最高に「完璧」な作品であるという、謎に満ち満ちた作品を、「群盲象を撫でる」ようにレビューしてみました。