ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

ドストエフスキイの生活 / 小林秀雄

ドストエフスキイの生活 (新潮文庫)

 今はもう変わっていると思いますが、私が学生時代のころの現代国語の大学入試問題御三家と言えば小林秀雄夏目漱石天声人語と相場が決まっていました。このうち最も難解な文章で何千何万の受験生を悩ませたのが小林秀雄。今でもこの名前にアレルギーのある同世代諸氏は多いはず。
 まあ、自分の書いた文章のうちで難解なところばかり選ばれて毛嫌いされた小林秀雄も迷惑千万と思っておられたかもしれないし、一方で受験生が大量に買い込むのでそれほど売れるとも思えない著作が売れるのですから、多少はにんまりされてたかもしれません。
 で、個人的にはこの文章が、頭に焼き付いて離れません。殆どトラウマです。

子供が死んだという歴史上の一事件の掛替えの無さを、母親に保証するものは、彼女の悲しみの他はあるまい。」

ああ、これかとご存知の方も多いでしょう。それほどまでによく試験問題として取り上げられた文章です。一方ご存じない方は、こんな簡単な文章のどこが難解?と思われるかもしれません。しかし前後の文脈の読解に難渋しつつこの文に突き当たると、もう何がなんだか。ちなみに前方には

「僕等は厳密を目指して曖昧の中にいる。」
ソクラテスは再び毒杯を仰がねばならず、信長はいつか本能寺で死なねばならぬかもしれぬ。そういう言葉に一体何んの意味があるだろうか。」

そして後方には、

「言わば歴史と言う河が、自然の上に彫らざるを得ない河床に、歴史と言う生き物が、自然の上に投げざるを得ない影に、客観的という言葉が纏い付き、影によって実物が類推されるのだ。」
そして決めの一文。
唯物史観という疑似科学の土台である。」

 さあ、これを解釈しなさいと言われて、試験場で即すらすらと答案が書ける受験生はそうはいないでしょう。

 実はこの文章は「ドストエフスキイの生活」の序文「序(歴史について)」の一部です。小林秀雄ドストエフスキイという歴史的人物について語るにあたり、格別の野心を抱かず、この素材によって自分を語ろうとは思わず、かといって資料などは生きていた人物の蛻(もぬけ)の殻に過ぎないのだから、それを寄せ集めれば人物ができるとも思わない。だから、

立ち還るところは、やはり、ささやかな遺品と深い悲しみがあれば、死児を描くのに事を欠かぬあの母親の技術より他にはない。」

と宣言するのです。
 人の感情を無視した唯物史観など無用、かと言って自分の意見を押しつけがましく滔々と述べ立てるのも本意でない、だからドストエフスキイの人生を辿りつつその時々の状況に寄り添って彼の著作を振り返ってみよう。
 とでも簡潔に書けばすむこと、と思わないでもないですが、本書の序文として鳥瞰してみて初めてその真意を理解できますし、流石の名文である、と悟るわけです。だからこそ、受験生はたとえ頭痛を起こそうが眩暈がしようが小林秀雄の著作は可能な限り読んでおかねばならなかったし、当時の学生たちにそれなりの教養を身につけさせた、という意味では大きな意義があったと思います。

 では本文も難解かというと全くそういうことはない。序を乗り越えてしまえば頁をめくる手が止まらないほど面白いし、理解も容易です。
 というわけで私は小林秀雄経由で、ドストエフスキイという、農奴解放、西洋科学の流入社会主義の台頭という激動の時代のロシアに生き、銃殺寸前でシベリアに流刑され、無類の浪費家でギャンブル狂で借金返済のために小説を書き続け、結婚離婚を繰り返した、癲癇持ちの生活破綻者の書いた作品群に強く惹かれていくこととなりました。当時、新潮文庫で出ていた作品は全て読破したと思います。

 ではその作品の神髄を完全に理解していたかと言うと、今でも自信はありません。特に「カラマアゾフの兄弟」、これは難物でした。ドストエフスキイが自身の全人生の経験と知識と哲学をこれでもかとぎゅうぎゅう詰めにぶち込んで、なおかつそれに勝るとも劣らない第二部の構想まで用意していたという、完璧なのか不完全なのかよくはわからないが、とにかくものすごい小説。
 これを主人公アレクセイの歳にも満たないものが理解するのは無理だ、と思いました。そしていつかは再読してみよう、と思いつつ歳月は流れ、殺された父フョードルの年代にいつか達してしまいました。

 今回ブクレコの常連さんのレビューやコメントに背中を押されてついに再読してみました。やはり歳月とは恐ろしいもので、随分と印象は異なっていました。もちろん訳者の違い、ということもありますが、自らの経験値、社会情勢の変化、その他いろいろな要素があると思います。
 その余韻をじっくりとかみしめつつ、自分なりに考えをまとめようと思っていたのですが、亀山郁夫氏の新訳第五巻の翻訳者の態度としてはどうかと思えるほどの長すぎる「解題」はその興を削いでしまう感が否めません。
 そこでそれは途中で切り上げ、この「ドストエフスキイの生活」を再読してみました。序文も今となっては「深いな」と思えますし、「カラマアゾフの兄弟」、「罪と罰についてI,II」、「ドストエフスキイ七十五年祭における講義」はやはり当時最高の批評家が全精力を傾けただけのことはある素晴らしい評論だと思います。

 ドストエフスキイに興味があり、かつ気骨のある評論を読んでみたい方には、現代でもこの書が最高ではないか、と思います。