ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

太刀洗万智を追いかけて(1) 「さよなら妖精」「王とサーカス」

さよなら妖精 (創元推理文庫)

 こちらでは一度も紹介していませんでしたが、実は最近とても気になっている作家、というか、その作中の人物がいます。作家は米澤穂信。そして作中人物は太刀洗万智(たちあらいまち)

 簡単に太刀洗万智を紹介しましょう。

 「さよなら妖精」で初登場。この時は高校生。黒い長髪とやや痩せた長身。苗字の「太刀洗(たちあらい)」で呼ばれるのを嫌い、教室で居眠りしていて「センドー」というあだ名をつけられたのが気に入り、そう呼ばれることをいたく気に入っている。冷静で泰然としているが、陰りと険しさ、鋭さのある容姿からきつめの印象を抱かされている。そしてきわめて鋭利な頭脳の持ち主。

 紛争のさなかのユーゴに帰国したマリヤ・ヨヴァノヴィチの運命について常に自問自答し、大学卒業後新聞社に勤めるが、10年後にはフリーライターとして独立し、手始めにネパールを訪れてそこでも大事件に巻き込まれ、報道とは何のためにあるのか苦しい自問自答の末に自分なりの信念をつかむ。

 なお中学浪人しているため主人公たちより一つ年上であったため、高校生のときは実際より年上に見られ、10年後には逆に年齢を信じてもらえないほどの若さに見られる。

といったところです。

街角で謎が待っている がまくら市事件 (創元推理文庫)

ナイフを失われた思い出の中に」 「街角で謎が待っている」所収

 出会いは「晴れた日は謎を追って」「街角で謎が待っている」という架空の都市でおこる不可能犯罪をテーマとした若手作家群のアンソロジー集でした。あまり良い出来の作品集とは言いかねるのですが、その掉尾で妙に気になる作品に出会いました。

 それが米澤穂信の「ナイフを失われた思い出の中に」という作品。正直なところ、内容や謎解きはイマイチだと思いました。しかし太刀洗万智という妙な名前の女性ルポライターとおそらくは旧ユーゴから来たと思われる男性の間にただならぬ空気が流れており、この作品がなんらかのスピンオフ作品であることが読めてとれました。
 こういうアンソロジー集にスピンオフを書くというのも反則な気がしますが、ともかくその元本はすぐわかりました。解説に詳細に説明があったからです。その元本は「さよなら妖精」。

 ちなみに最初は彼の出世作氷菓」シリーズの続編として企画されたのですが、あまりにも重い内容のため編集者と相談の上、独立した小説として出版することに決まったそうです。そしてこの本が彼のライトノベル作家から本格ミステリー作家への転換点となります。
 という事実は、読む前は知る由もなく、このアンソロジーと「さよなら妖精」という題名からして、所謂ライト・ミステリー作家かな、という軽い気持ちで読み始めたのですが、、、

 とんでもない筆力と綿密な取材から構築された傑作であり、太刀洗万智はとても魅力的。鋭利な頭脳と、とてもナイーブな心を持つ高校生でした。

 すっかり気に入ってそこから太刀洗万智の追っかけが始まり、「王とサーカス」では頭を棍棒で殴られるような衝撃を受け、そして予約注文していた「真実の10メートル手前」を昨日読み終えました。今後もこのシリーズは続いていくと思いますし、是非続けていただきたい。

 という思いをこめて、ブクレコに投稿したレビューをここに再掲します。まず今回は二作品。「王とサーカス」で述べた後輩とは、もちろんあの記事のE先生です。

さよなら妖精

 架空の小都市が舞台で、その土地の高校生たちとユーゴスラビアから来た少女マーヤ(マリヤ・ヨヴァノヴィチ)との二か月間の交流の様子を描いている。各章には年月日が記されている。序章は一年後の1992年7月6日月曜日、第一章は1991年4月23日火曜日。
 この間に何があったか即座に答えられる日本人は少ないだろう。ユーゴ内戦が起こった年なのである。当時は連日新聞を賑わせていたが、内戦の激しさや人種間同士の憎しみ合いの凄絶さを本当に切実に理解できていたのだろうか?

 このテーマに青春小説という形で思い切って踏み込んだ作者の手腕と努力には敬意を表する。ユーゴスラビアという国の成り立ちの危うさと実際に起こった内戦について徹底的に調べ上げて見事に小説の中で消化している。マーヤの思いと悩みは当時の日本人、特に高校生レベルでは到底理解しがたいものだったはずだ。そのギャップを時には辛辣に、時にはユーモラスに描き、最後には。

 泣かせる。あまり書きすぎるのも私の悪い癖、この辺で筆をおいておく。

 文章自体は軽いし決して完成度が高いとは言えないが、作者の思いがひしひしと伝わってくる、良い作品だと思う。

王とサーカス

王とサーカス

 太刀洗万智を追うのは危険かもしれない。最後に棍棒で頭を殴られるほどの衝撃が待ち受けていた。
 いきなり個人的な話で恐縮だが、阪神淡路大震災の夜、寝ずの病院当直業務を私とこなしてくれた後輩はその後AMDA活動に身を投じ、ネパールに「AMDAネパール子ども病院」を設立した。彼を尊敬していたし、その病院がネパールの乳幼児死亡率の減少に貢献していることを誇りに思っていた。しかし、この「王とサーカス」がその思いを根底から覆すことになる。

 ネパール貧民層の少年は言う。

「俺は言ったぞ。外国の連中が来て、この国の赤ん坊が死んでいく現実を書き立てた。そうしたら金が落ちてきて、赤ん坊が死ななくなったってな。」
「仕事もないのに、人間の数だけが増えたんだ。」
「増えた子どもたちが絨毯工場で働いていたら、またカメラを持ったやつが来て、こんな場所で働くのは悲惨だとわめきたてた。確かに悲惨だったさ。だから工場が止まった。それで兄貴は仕事をなくして、慣れない仕事をして死んだ」
「こっちが訊きたい。どうして憎まれないと思ったんだ?」

胸に一言一言が刃のように突き刺さる。しかし目を背けることはできない。最初に書いておくが本書は傑作だ。

 「さよなら妖精」でマリヤ・ヨヴァノヴィチを喪ってから十年、フリーライターとなった太刀洗万智はネパールを訪れ、偶然王族殺害事件に遭遇し、取材活動を開始する。前半はカトマンズの情景描写と怪しげな投宿宿の宿泊人やその周囲の人物描写に費やされる。
 そして中盤に至り事態は大きく動き始める。内部情報を収集しようとして接近したネパール軍人は冷たくこう言い放つ。

「我々の国王が殺されたのだ。軍の恥だ。ネパールの恥だ。なぜそれを世界に向けて知らせなければならないのだ」
「自分に降りかかることのない惨劇は、この上もなく刺激的な娯楽だ。(中略)記事を読んだりした者はこう言うだろう、考えさせられた、と。そういう娯楽なのだ。」

 そういう誇り高き人間がその片方で悪に手を染めていないとは限らない。日本の常識が通用する国ではない。その軍人を巡って後半は物語が急展開する。そして最後に衝撃的な事件の真相が明らかになる。

 太刀洗万智は大スクープを目の前にしてかろうじて踏みとどまり、世紀の大誤報をかろうじて免れることができた。彼女はフリーの記者として、自分がどういう場所に立っているのかを確かめ続けている。そしてネパールでの経験をこう語って物語は終わる。

もしわたしに記者として誇れることがあるとすれば、それは何かを報じたことではなく、この写真を報じなかったこと。それを思い出すことで、おそらくかろうじてではあるけれど、誰かのかなしみをサーカスにすることから逃れられる。
 そう信じている
。」

 この経験が、私が初めて彼女を知った「ナイフを失われた思い出の中に」につながっていく。そしてもうすぐ出版される「真実の10メートル手前」にも。

 そして、私は私の後輩を今でも誇りに思っている。真実の10メートル手前で手をこまねいてはいても。