ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

職業としての小説家 / 村上春樹

職業としての小説家 (Switch library)

 マックス・ウェーバーは「職業としての学問」「職業としての政治」を著して理解社会学を提唱しました。ではその題名を拝借したような村上春樹の新刊エッセイ「職業としての小説家」は社会学的な本であるのか?

 という質問をFacebookに写真をアップした時に友人から受けて、一瞬虚を突かれてしまいました。かたや、ゴリゴリのドイツ人社会学者、かたや極めて内省的な小説家ですから前者が「敷衍、帰納」的、後者が「自省、演繹」的であるのは明らかで、その時点では題名にケレンを効かせたかもしれないけれど内容は別物でしょう、とレスしました。しかし意外に本書も啓蒙的なところがあり、知っているところが多いにもかかわらずとても面白かったです。
 少なくとも期待を裏切られ続けている最近の彼の小説よりは、「語られざる講演録」という形で柔らかく若い方を鼓舞しようと試み、その上で自らの半生を振り返った本書のほうがとてもしっくりきました。懐かしい春樹が帰ってきたな、という感覚です。
 こんな読者でも、村上春樹

新しく出た作品を私は残念ながら好きではありません。しかし次の本は絶対買います。がんばってください。
 
という読者が好きです、と言ってくださるのですからうれしいですね。たとえ彼の思惑通りに「メインライン」されているだけにしても。

 というわけで本書は「ごく普通の人間」が、
・授業が面白くなくてペイパーバックばかり読み漁っていた高校時代を過ごし
・大学紛争でろくに授業のない大学生時代に結婚してしまい
・二十台を借金に追われるジャズバー経営に費やし
神宮球場の外野席で寝そべって高橋里(広)の第一球をヒルトン(ヤ)がレフトにきれいにはじき返した小気味の良い音を聞いた時に「そうだ、僕も小説をかけるかもしれない」と何の根拠もなく閃き
・台所で半年かかって「風の歌を聴け」を書きあげ
・運よく群像新人賞をとり、
・文壇のお偉いさんからこんなものを小説と思ってもらったら困ると評されてそうだろうなと妙に納得し
・二回芥川賞候補になるも取らなくて良かったと思い
・三作目(羊をめぐる冒険)にしてジャズバーをやめて小説家一本でやっていく(渡り終えた橋を焼く)覚悟を決め
・小説家として生きていくためにはフィジカルが強くないといけないとジョギングをはじめ
・何かと煩わしい日本から離れて執筆活動を行うようになり
・一日十枚のペースを堅持し、何度も推敲を繰り返したうえで「養生」してそれから又推敲して長編小説を書き続け
・妻を定点観測者に定めて
・「ノルウェイの森」の大ヒットで少し落ち着き
・「海辺のカフカ」でいつか超克すべきであった一人称小説からようやく卒業し
・どんな批判があろうと確実に一作ごとに読者を増やし続けているという自負を持ち
・日本の文壇の批判をバネに海外へ打って出てじわじわと世界的ベストセラー作家になっていった

過程を詳細に語りつつ、一発当てるだけでは「小説家」とは呼べない、もしあなたがモーツァルトシューベルトプーシキンランボーファン・ゴッホのような天才でないのであれば、このような健全な生活を送りながら良い作品を書き続けることが大切である。

 と説く、ちょっと不思議な啓蒙的自伝となっていました。

 ご本人があとがきで書いておられるように、既知の内容も多いですが相変わらず彼の文体は(ハルキスト限定かもしれませんが)読むものを惹きつけて止みませんし、個人的には、おっ!と驚かされたところもありました。三つ挙げてみます。

1: 私の一番好きな小説「国境の南、太陽の西」はもともと「ねじまき鳥クロニクル」の一部だった。(→ 自分にとってはまるで地球の一部がはがれて月になったような感覚!)

2: 夏目漱石が好き。彼の小説の登場人物には間に合わせのような登場人物がほとんどいないのがすごい。(→ 漱石大全読破プロジェクトでこの半年読んできただけによくわかります。漱石は新聞の連載に追われ、フィジカルがきわめて弱かったですけどね)

3: 村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」を読んで僕にはこのような小説は絶対書けないと思った。

3番目に関しては、常々Wムラカミと称される二人があまりにも対照的だなと思っていたので、春樹の龍観の一端を垣間見られて嬉しかったですね。私も「限りなく透明に近いブルー」でいきなり芥川賞を取り時代の寵児となった龍が本当に「小説家」としての才能を開花させてその後の素地を作ったのはこの小説だと思っていましたから。

 以上でこのエッセイのすべてを紹介しきれたとはわけではありませんが、盟友柴田元幸の依頼で書き溜めていた原稿を渡し柴田元幸の主宰する雑誌「MONKEY」に連載されたところから始まったという経緯を最後に記すだけで分かる人には分かるでしょう、買いです。これを読んで小説家になれるかどうかはあなた次第ではありますが。