ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

忘れられた巨人 / カズオ・イシグロ、土屋政雄訳

忘れられた巨人

   カズオ・イシグロの本年三月に英米で発表された新作が驚くべき早さで邦訳刊行されました。原題は「The Buried Giant」、邦題は「忘れられた巨人」、早川書房が翻訳権を独占していることもあり、「わたしを離さないで」「夜想曲集」に引き続いて土屋政雄氏が翻訳を担当しています。その丁寧で穏やかな語り口は本書でも変わることはなく、カズオ・イシグロ・ファンとしては嬉しい限りです。ただ、邦題はちょっと違うんじゃないか、という気がします。

 さてその内容ですが、「わたしを離さないで」でクローン人間というSF的要素を大胆に取り入れて世界を驚かせたように、今回は日系英国人である作者が英国人の心の故郷とも言える「アーサー王物語」の伝説世界に果敢に挑戦しています。
 欧米では概ね好意的に受け入れられ、あとがきでは既に映画化権を某プロデューサーが獲得したと書いてありました。しかし、残念ながらストーリー自体は凡庸としか言いようがありません。だって、今や伝説のソフトと化した感のある「Wizardry」以降、数多のRPGにアーサー王伝説や竜退治物語が流用され尽した現代において、そうそう目新しい物語を作り出せるわけがないでしょう。カズオ・イシグロもそれくらいは承知ていたはずで、

「(竜や鬼などの)表面的な要素に惑わされないでほしい。新作は単なるファンタジーではない。」

と発言し、却って一部の作家から「ファンタジーを見下している」との批判も受けたそうです。そしてその批判は決して的外れなものではないと私も思います。その上で敢えて言わせていただくと、やはりこれは紛れもないカズオ・イシグロの世界であり、人を愛することの痛切な哀しみの物語なのです。

 舞台は六~七世紀ごろのブリテン島、伝説のアーサー王が円卓の騎士とともにローマ人やサクソン人を撃退し伝説の島アヴァロンへ去った少し後の時代です。例えばまだ円卓の騎士ガウェインは老いて尚健在です。しかし平定したと言っても島は今のイングランドのように美しい緑に覆われた平和な世界ではありません。物語はこういう文章で始まります。

「 イングランドと聞けば、後世の人はのどかな草地とその中をのんびりとうねっていく小道を連想するだろう。だが、この当時のイングランドにそれを探しても、見つけるのは苦労だったはずだ。あるのは行っても行っても荒涼とした未墾の土地ばかり。

 その世界はアーサー王の系統であるケルト系のブリトン(勝者)とゲルマン系のサクソン人(敗者)の微妙なバランスの上に成り立っていますが、その世界に暗鬱とした影を落としているのが「健忘の霧」と「鬼、妖精、竜」たちの存在。
 この霧のためにこの世界の住人たちの殆どは1,2日前の記憶も保てないでいます。ブリトン人であり村では疎外されている老主人公夫婦もその例に漏れませんが、二人とも時に昔のことを断片的に思い出すことがあります。それが総合されて過去がはっきりとすればいいのですが、そうはいきません。しかし何かをある春の日に感じ取り、昔出ていった息子の元へ身を寄せることを決意し旅に出ます。

 これだけのお膳立てをしてカズオ・イシグロはこの物語を語り始めます。ではRPGの慣例にしたがって主な登場人物を紹介しておきましょう。

アクセル: 主人公の老人でブリトン人、過去にはアーサー王軍となんらかの関係があったらしいが思い出せずにいる。妻を愛して止まない。

ベアトリス: アクセルの貞節な妻で「お姫様」と呼ばれているが何故そう呼ばれるのかはわからない。ただ、そう呼ばれることに抵抗はないようである。

ウィスタン: RPG的に言えば勇者で、ある密命を帯びたサクソン人の戦士。礼節と知恵がありしかも屈強な戦士で、ブリトン人にも敵意はみせない。あるサクソン人の村で悪鬼にさらわれたエドウィンを助けたのが縁で偶然居合わせたアクセル夫妻とエドウィンと旅をすることになる。

エドウィン: サクソン人の少年で戦士の才能を持つ。悪鬼にさらわれてウィスタンに助けられて生還するが怪我をしていたため、村のものから悪鬼に傷つけられたものは悪鬼になると殺されかける。ウィスタンとブリトン人の長老の策によってアクセル夫妻とウィスタンとともに旅することになるが、しばしば生き別れの「母」の声を聞く。

ガウェイン: 円卓の騎士の中でも勇壮果敢な戦士であったアーサー王の甥。老いて尚健在であり、雌竜クエリグを退治するために愛馬ホレスとともに旅している。四人と遭遇したことにより、たびたび彼らの窮地を救うことになるが。。。

賢者ジョナス: 山上の修道院の修道士。謎の霧や竜の正体を知っているという噂だが四人が辿り着いた時には何故か瀕死の状態であった。

船頭: アクセル夫妻が旅の最初に雨宿りした家に居合わせたある島への渡し守。同じく居合わせた老婆によると夫婦で渡ろうとするものを引き裂いて一人だけ渡すという。そしてその島に渡ったものは自分ひとり以外誰とも顔を合わせることはないという。

 もちろんアクセル夫妻はそう簡単に息子のいる村へ辿り着けません。サクソン人の村では悪鬼騒動に巻き込まれ、知り合いのブリトン人の長老の策略でウィスタンエドウィンとともに逃げるように村を無事に脱出します。賢者ジョナスのいる山上の修道院へ向かいますが、その途中でもブリトン人の見張り番の兵士に行く手を阻まれ、修道院では賢者ジョナスには出会えたものの何故か突然の脱出を命じられます。ガウェインエドウィンの助けを借りて修道院の地下から辛くも森へ脱出しますが、ガウェインの言ったとおりの方法で川を下ると小妖精たちの襲撃にあってしまいます。。。

 一方のサクソン人戦士ウィスタンにも様々な艱難辛苦が用意されており、老夫婦と同行したり離れたり、ガウェインとの運命の出会いお互いを尊敬しつつも不穏な空気が流れたり、エドウィンの覚醒を促したりと、まさにRPGそのものの展開。

 そのようなストーリーに文学的・思想的深みを持たせているのは、アヴァロンを髣髴とさせる「島」の描写の幻想性であったり、その島へ渡るための夫婦愛についての船頭の質問であったり、ウィスタンが疑問を呈する戦争がもたらす「海より深い底なしの憎しみ」やキリスト教の持つ「放置された不正義」であったりするわけですが、カズオ・イシグロのそのような問題提起は、今回ばかりはストーリー展開の速さに流されてやや上滑りしている感が否めません。

 まだ刊行されたばかりなのでこれ以上語ることは避けますが、感想を述べるためにどうしても一つだけネタばらしをお許しいただきたいと思います。人々を健忘に導く霧は雌竜クエリグが吐く息がもたらすものであり、竜の呼気にその様な効果を持たせたのは大魔術師マーリンであり、それを命じたのはアーサー王その人であったのです。

 アーサー王の命令の理由は?それはその効果が切れるときに明らかになるのでしょう。それはマクロとミクロの効果をもたらします。マクロの方は伏せておきますが、ミクロの方は個人レベルの問題、例えばアクセルとベアトリス夫婦の過去についての謎が明らかになるということです。その謎が明らかになっても夫婦はお互いを愛し続けることができるのでしょうか?
 

 「わたしを離さないで」で「限られた生を生きることの痛切な哀しみ」を描ききってみせたカズオ・イシグロが今回描いたのは「人を愛することの痛切な哀しみ」であるとは、そいうことであり、結末は読んでのお楽しみです。

 と書いてきたものの正直なところ、まだこの小説が傑作なのが、凡庸なファンタジーなのか確信は持てません。しかし心配はしていません。10年前の小説「わたしを離さないで」が傑作であると後日気がつき原書、映画、演劇と何度も反芻したように、この物語も心の奥底に刻まれ、やがてその素晴らしさを何度も思い知ることになる、と信じていますから。