ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

嵐が丘 / エミリー・ブロンテ

嵐が丘〈上〉 (光文社古典新訳文庫) 嵐が丘〈下〉 (光文社古典新訳文庫)
 

 若い頃に読み通すことが出来ず、いつか読もうと思っている本がいくつかあります。昨年の森鴎外の「渋江抽斎」もその一つでした。そしてこの「嵐が丘」もあまりの訳文の難しさと内容の激しさ、奇矯さに辟易して途中であきらめた作品の一つです。

 この作品は何度か映画化されていて粗筋をご存知の方も多いと思いますし、私の大好きなKate Bushのシングル・デビュー曲「Wuthering Heights」でも有名になりました。ところでこの歌の有名なサビ

Heithcliff, it's me, I'm Cathy, I've come home
I'm so cold, let me in-a-your window

は有名ですが、キャシーは何年ぶりにどういう形で帰ってきたかご存知でしょうか?

 実は20年ぶりに亡霊となって帰ってきたのです。昔さんまちゃんのTV番組「恋の空騒ぎ」でテーマソングで流れていましたが、これを選んだプロデューサーはよほどの皮肉屋か全く知らなかったのか。

 とにもかくにもそれを知っているとこの作品を選んだKateがいかに早熟で天才で狂気をはらんでいたかがよく分かります。

 閑話休題、ついにこの本を新訳の分かりやすさも助けとなり、完読することが出来ました。
 この頃はブクレコの影響で読んだ本は必ずレビューすることにしています。良い頭の整理になりますし、その本に関しての自分の考え、感想が明瞭になりますのでいいことだと思っているのですが、事この本に関しては難渋しました。

 訳者小野寺氏のあとがき、解説を読み、何度も気になった箇所を読み返し、悩みに悩みぬいて、一月近く推敲を重ねてはあきらめを繰り返していました。最終稿も随分と長いものとなってしまい、それでもまだ決して満足できるものではないのですが、ブクレコで参考になった、読みたくなった、という嬉しいコメントも頂きましたので、ここに再掲させていただきます。

 「Wuthering Heights」の作者のエミリー・ブロンテは有名なブロンテ三姉妹の一人で、内向的でおとなしい女性だったという。いくつかの詩は書いていたものの、長編小説は「ジェイン・エア」で成功した姉シャルロットの勧めで書いたこの一作だけである。
 当時は女性が小説を書くなど考えられなかった時代で、エリス・ベルの男性名で出版されたものの「異常な」「悪い」小説と全く評価されなかった。エミリーは別にそれを気にすることもなく、後年の名声を知ることもなく、間もなく片田舎の自宅で肺病で亡くなった。
 ところが文学が人間の内面を追求する様になった二十世紀に入り評価が高まり、サマセット・モームが世界十大小説に選び、ブランデンが「リア王」「白鯨」と並ぶ英語文学の三大悲劇と評したことで世界的に有名な小説となった。その後、何度も映画化され、更にはケイト・ブッシュがこの小説を歌にしてデビュー、世界的にヒットさせたことでひろく大衆にも知られることとなる。

 「Wuthering Heights」を「嵐が丘」と訳したのは日本の英文学の創始者の一人、斉藤勇(たけし)氏であるが、この格調高い題名を与えられることがなければこの作品が日本でこれだけの知名度を得られたであろうか?私は否であると思う。
 と言うのも、この作品は誰もが一様に首肯できるような普遍的な「傑作」ではないと思うからだ。読むのに辛く、語るに難しい、とにもかくにも長い長い物語である。主人公の名前の如く崖を攀じ登るような努力を必要とし、読み終えてみれば題名の如く嵐が吹きすさぶ荒涼とした丘に佇んでいる。巨峰が山脈のように連なる英国文学の中でも一際異色で孤高の地に屹立している作品だと思う。

 訳者泣かせでも有名である。原本は残っているがエミリーの死後シャルロットがヨークシャー訛りが南イングランドの人には読めないだろうと何回か改定したため複数の底本がある。過去多くの英文学者が挑んできたが、どの日本語訳もとても読みにくいし、この小説の真髄を日本語で伝え得るのかという疑問もある。今回のKindleの光文社版新訳の訳者である小野寺健氏も

「『嵐が丘』は果たしてひろく言われるほどの傑作なのか ー ひょっとすると、その本質は浅薄なコミックではないのか」

という疑問を半世紀以上抱え続け、それを追及するためにシャルロットが手を加えることの少なかったペンギン版を用いてこの新訳に挑んだとあとがきで書いておられる。その結果、くたくたに疲労することになったが、疲労の後にはかつて味わったことのないカタルシスを経験したそうだ。

 というわけで学生時代に途中で挫折した本作をいつかは読破してみようと思っていたのだが、そのような氏の努力の結実である新訳は昔の記憶より随分歯切れの良くて読みやすい文章となっていた。その分犠牲にしているニュアンスもあるとは思うのだが、「読み通せた」という事がまずは大事である。その意味で氏の文章は評価できるものであった。

  主人公はHeathcliff(ヒースの崖)という個性的なSpeaking Nameを体現したような激烈な個性を持つ人物である。リバプールで拾われたジプシー(差別用語のため現代ではロマと呼ばれる)で黒い顔を持つ。ジプシーが黒い顔を持つと言うのは日本人には理解しにくいが、研究者でも色々な意見がある。現在はアラブ系のロマであったのではないかと言われている。
 この孤児ヒースクリフが、拾われていった嵐が丘のアーンショウ家の娘キャサリンを、その不実に恨みを抱きつつも生涯愛し続け、彼女の死後は「死んだのなら亡霊となって俺に憑りつけ」とまで思い続ける。そして自分の恋を邪魔し続けたアーンショウ家とキャサリンを奪ったリントン家に徹底的で残酷な復讐劇を仕掛ける。そしてその復讐が完成したと思った時にはその鉾先が自分に向かってはね返ってくることとなる。その様はまさに「Wuthering」であり、風景描写の苛烈さに負けない恐ろしい物語である。
 エミリーはこの物語を一切の取材や下敷きにする題材や経験もなく「想像力」だけで描ききったそうだ。その分観念的で異常に長い台詞があったりと小説の完成度という点では「ジェイン・エア」にはかなわないと思ったが、一方で内向的でおとなしい片田舎の貧しい家庭に育った彼女のどこにそれだけのイマジネーションとエネルギーが潜んでいたのか、信じられない思いがする。

 物語の始まりは、既に主であったリントン家を失いヒースクリフのものになっていたスラッシュクロス屋敷を借り受けた「人間嫌い」のロックウッド氏が嵐が丘の屋敷にいる家主ヒースクリフを二度訪れ、二度目には散々な目に合い、おまけにキャサリンの亡霊まで見てしまうところから始まる。

 ほうほうの体でスラッシュクロス屋敷へ帰り着いたロックウッド氏は体調を崩してしまうが、その有り余った時間を利用して家政婦のネリー・ディーンが語るヒースクリフとアーンショウ家、リントン家の悲劇の物語を聞くという構成になっている。
 ネリーはアーンショウ家とリントン家双方に仕え、この物語に登場する主要登場人物の全てを見てきた。そしてこの小説の中でただ一人正常の精神と健康を有していた人物である。その彼女が語る物語がこの長い小説のほとんどの部分を占めているといってよい。

 ここにこの小説を解く鍵があるとヴァージニア・ウルフ女史は「嵐が丘」の評論で述べておられるそうだ。すなわち、この小説は全てネリーというフィルターを通しており、

「『嵐が丘』には”わたし”が存在しないのだ。主従関係もないし、愛はあっても男女の愛ではない。」

のだ、と。ちょっと先走りしてしまったが、引き続きネリーの語る粗筋を追ってみよう。

 18世紀半ばに「嵐が丘」で、キャサリン・アーンショウが生まれた。明るくて、よく笑いよく喋る、ちっともじっとしていない元気のいい女の子だった。彼女にはヒンドリーという兄がいたが、 ある日父のミスター・アーンショウは外出先のリバプールで孤児を見かけて哀れに思い、家に連れて帰ってきた。 主人は彼をヒースクリフと名づけ自分の子供と同等の愛情を注いで育てる。
 ヒンドリーは気に入らなかったが年長でもあり、程なく大学生として都会へ出てしまったのでそれ以上波風は立たずに、幼いヒースクリフとキャサリンの仲は深まる。

 しかし主のアーンショー氏が急逝したことで状況は一変する。ヒンドリーがフランシスという妻を連れて帰省し、館の主人となる。ヒースクリフを嫌っていたヒンドリーはヒースクリフを下働きに身分に落として苛め抜くようになる。そしてフランシスがヘアトンという息子を出産してまもなく死んでしまってからは生活はすさみ、性格は傲慢になり神をも人間をも呪い放蕩にあけくれ、息子ヘアトンを盲目的にかわいがる一方、ますますヒースクリフと敵対するようになる。そのあまりのひどさにヒースクリフは誓う。ヒンドリーに復讐をするなら何年でも待つ、その前に奴が死なないことだけを神に祈るのだと。

 そんな状況下でもキャサリンヒースクリフは思春期を迎え、お互いに恋心を抱くようになっていた。しかしある日二人は「スラッシュクロス屋敷」の住人と出会う。 上流階級の主人リントン夫妻と、その子供のエドガーとイザベラである。
 キャサリンは上流階級に憧れを持ち、エドガーの求婚を受けてしまう。

 このあたりのネリーとキャサリンの問答は長く複雑である。ネリーはキャサリンのわがままで傲慢な性格と薄っぺらなエドガーへの愛情をなじるが、キャサリンは平然と言い返す。

「兄がヒースクリフの身分を落としてしまったから彼と結婚しては自分をおとしめてしまう、だから心はつながっていても結婚はできない」「エドガーはハンサムで、若くて、金持ちだから結婚する」「地方一の名流婦人になり得意でいられる」と俗なことを言う半面、

「私は天国へ行ったらとてもみじめなこととなる、天国は私の住む場所じゃない」「ヒースクリフをどんなに愛しているか、それはぜったい本人に教えてはだめなの」「彼のほうがあたし以上にあたしだからなのよ」「彼の魂と私の魂は同じものなの。ところがリントンの魂は月の光と稲妻、霜と火くらい違うの」

と非常に観念的なことを喋り続ける。このあたりもう既にキャサリンは精神の均衡を失いつつあるのではないかとも思えるし、通常の男女の愛を超えた根源的な人間の魂の深淵をエミリー・ブロンテは表現しているのだ、と考えることもできる。

 とにもかくにも問題はヒースクリフがこの会話を立ち聞きしてしまっていたことだ。ショックを受けたヒースクリフは、雷鳴が轟き稲妻が走るその日の夜に密かに嵐が丘から姿を消す。
 失踪を知ったキャサリンは狂ったようにヒースクリフを探しまわるが、見つからない。疲労困憊したキャサリンはリントン家に運ばれるが熱病に罹って滞在を余儀なくされる。皮肉なことにキャサリンは回復するがそれがリントン夫妻に伝染し、二人は亡くなってしまう。そしてキャサリンエドガー・リントンと結婚をする。

 しばらくは平穏な日々が続いたが、3年後ヒースクリフが突如として嵐が丘に帰ってきた。失踪中にどういう手を使ったのかは分からないが ヒースクリフは裕福な紳士になっていた。
 戻ってきた理由は明快である。それは自分を下働きにしたアーンショウ家とキャサリンを奪ったリントン家への復讐を果たすためだ。

 まずは、「嵐が丘」で荒んだ放蕩生活を送っていたヒンドリーから賭博でいとも簡単に財産をむしりとり、「嵐が丘」と財産をそっくり奪い取ってしまう。そして息子ヘアトンには何の教育も受けさせず無知で野卑な下男としてしまう。昔自分が貶められたように。

そして次はエドガーの妹イザベラを言葉巧みに誘惑し、一緒に駆け落ちさせて結婚する。しかしイザベラを待ち受けていたのは冷たい罵倒の言葉と虐待だけだった。 耐えきれなくなったイザベラは「嵐が丘」を出て一人で男児を出産、ヒースクリフへのあてつけにリントンと名付ける。

 一方キャサリンはすでに精神に破綻をきたし、体も衰弱していた。そしてヒースクリフとの最後の密会でついに彼女の気力体力は限界を超える。彼女がヒースクリフに不実を責められて最後に反論した狂気を孕んだ言葉を記しておこう。

「うるさいわね。たとえあたしが悪かったのだとしても、あたしはそのせいで死んでいくのよ。それで充分じゃないの!あなただって私を棄てたわ。でもあたしはあなたを責める気はないわよ。許してあげる。だからあたしも許して!」

 
 翌朝、キャサリンは女児(キャサリン・リントン)を出産して亡くなってしまう。エドガーは嘆き哀しみ、もともと頑強ではなかった体は年々徐々に衰弱していき、娘キャサリンヒースクリフに奪われてしまったイザベラの息子リントンの行く末を見守ることもできず、財産を奪い取ろうと目論むヒースクリフの影におびえつつ、なす術もなくこの世を去る。

 このあたりに関して、キャサリンもイザベラも出産する前の1年間はとても妊娠をするような状況にはなかったとしか思えないのだが、ともかくどちらも子供を残した。どう考えてもその後のストーリーのための出産としか思えずかなり無理があるが、まあそのあたりは目をつぶって話を進めよう。

 こうして当初の目的の人間全てに復讐を終えたヒースクリフだったが、その憎悪はとどまるところを知らなかった。次の世代のヘアトン、リントン、そして二代目キャサリンを自分の思いのままに策略を張り巡らせて「嵐が丘」に住まわせ、アーンショウ家とリントン家の全ての財産を手中にする計画は完成するかに見えたが。。。

 結局ヒースクリフも初恋の相手、キャサリンへの愛と憎しみの激烈さ故に自滅する運命にあったのだ。彼も発狂してしまい4日間断食してこの世を後にすることになる。あの傲慢で神をも亡霊をも恐れないと思われたヒースクリフがどういうことが切っ掛けでそうなってしまうのかはとても興味深い。このあたりの後半から終盤の展開は是非ご一読いただきたい。

 とにもかくにも、エドガー、キャサリンヒースクリフの三人は荒廃が進む教会の沼地のあたりの土の中に並んで眠っている。そこを訪れたロックウッド氏は最後にこう語る。

「私はおだやかな空の下に佇んで、立ち去りかねていた。ヒースやイトシャジンのあいだをばたばたと飛び交う蛾を眺め、草のあいだを吹くかすかな風の音に耳を済ませていた。この静かな大地に眠る人々のなかに眠れない者がいとうなどと、誰が想像するだろうかと考えていた。」

 ヒースクリフとキャサリンの亡霊は今もヒースの荒野を彷徨っているのだろうか。例えそうだとしても、二代目キャサリンとヘアトンたち次世代の新しい嵐が丘はもっと明るいものとなってほしい。男女の愛という域を超えて人間の根源的な魂を英国北部の荒野を舞台に描ききったエミリー・ブロンテもおそらくはそう願っているだろう。