ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

高野聖 / 泉鏡花と高村薫と

高野聖

 私の尊敬する作家高村薫が現在月二回新聞に「21世紀の空海」という連載を続けておらます。今日で17回目に入りましたが、この二回は「高野聖」についての考察でした。

 「(ひじり)」といっても古くは役小角行基、そして若き日の空海西行に至るまで半僧半俗であり、妻帯肉食は勿論のこと女犯(にょほん、女性と性交渉を持つこと)も少なくなく、中には集団で全国を徘徊しては民衆をたぶらかすものも多かったといいます。

 高野浄土を説いて諸国を行脚した高野聖(こうやひじり)もその系譜に連なってはいましたが、これも中世の宗教的熱狂の風景の一つであり、民衆に広く受容されていた日常的風景の中にあったということだ、と高村女史は考察します。

 そのような考察の中で明治33年に発表された泉鏡花の「高野聖」にも言及しておられます。行脚の高野聖の風体についてこの小説から

角袖の外套に白いフランネルの襟巻、白足袋に日和下駄

という描写を引用し、先に述べたごとく僧侶というより俗な雰囲気があった証左としておられます。

 そこで早速青空文庫からダウンロードして再読しました。泉鏡花独特の体言止めや助詞止めの文体が懐かしく、一気に読んでしまいました。

 高野聖がたまたま同宿した男に聞かせる自分の体験談は嘘か真か。行脚僧ならではのリアルな山中の難儀の描写、例えば蛇がのたうち山蛭が雨のように降って吸い付いてくる山林の不気味さと、滝の水沫や清流の美しさの対比は見事の一言に尽きます。

 しかし鏡花の真髄はその先にあります。一宿を頼んだ山中の白痴の良人と美しい女の住む一軒家。そこで体験する一昼夜の幻想的な美しさとあやかしの不気味さの織り成す幽玄。それこそが鏡花の世界。

 例えば山蛭に全身を吸われた痛みを清流で女が癒してくれる夢見心地の表現。

「その心地も得もいわれなさで、眠気がさしたでもあるまいが、うとうとする様子で、疵の痛みがなくなって気が遠くなって、ひたと附(くっ)ついている婦人(おんな)の身体で、私は花びらの中へ包まれたような工合(ぐあい)。」

 そしてその夜にあやかしのものどもが家に近づいてくる気配。

「いやさまざまにむらむらと家のぐるりを取巻いたようで、二十三十のものの鼻息、羽音、中には囁いているのがある。あたかも何よ、それ畜生道の地獄の絵を、月夜に映したような怪しの姿が板戸一枚、魑魅魍魎というのであろうか、ざわざわと木の葉が戦(そよ)ぐ気色だった。」

 真相は言わずもがなですが、高野聖はその信心と験力を以って何とか窮地を脱っします。明治の物語に置き換えてはいますが、高野聖の聖俗併せ持った姿を活写した泉鏡花の筆力が冴え渡った傑作です。

 そして、高村薫は今回の連載をこう結んでいます。

「室町末期には高野聖は変質し始め、江戸時代には(中略)高野山史から抹殺された。それでもなお、日本仏教を底辺で支えた高野聖は、高野山弘法大師を1200年生き延びさせた最大の功労者に違いない。空海の庶民性というより、むしろ無名の聖と民衆の尽きない信心が空海に乗り移り、「お大師さん」を生み出したのだと思えてならない。」