ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

小川洋子この三本

 高村薫村上春樹ポール・オースターといった限られた範囲に偏りまくっている拙ブログの書籍レビューですが、最近ブクレコにはまっていることもあり、少しずつですがレパートリーが増えてきました。そこで今回は最近はまっている小川洋子さんの作品について書いてみたいと思います。

 小川洋子さんといえば、芦屋在住タイガースファンの女流作家で海燕新人文学賞揚羽蝶が壊れる時)、芥川賞(妊娠カレンダー)、泉鏡花文学賞ブラフマンの埋葬)、読売文学賞本屋大賞博士の愛した数式)を始め多くの賞に輝く人気作家ですが、個人的にはつい最近まで映画を見て興味を惹かれた「博士の愛した数式」しか読んだことのがありませんでした。

 ところが、先日紹介した「注文の多い注文書」をきっかけに彼女の作品を次々と読んでおります。その密やかで、耽美的で、無垢で、美しくて、ひんやりとしたエロティシズムも感じさせ、そして時には残酷な独特の世界は一度経験するとなかなか抜けられない魅力に満ちています。というわけでだいぶ読破しましたので、これまた手抜きですが、特に気に入った三作をブクレコに書いたレビューから紹介したいと思います。作品は

1: 「ブラフマンの埋葬」 2004年 泉鏡花文学賞受賞
2: 「人質の朗読会」 2011年
3: 「薬指の標本」 1994年

 です。このうち一番完成度の高いのは「薬指の標本」だと思いますが、小川洋子入門には「ブラフマンの埋葬」が良いと思います。

1: ブラフマンの埋葬

ブラフマンの埋葬 (講談社文庫)

 宝石箱にそっとしまっておきたいような小川洋子のつくりあげた架空世界。

 風も樹も森も川も海も、様々な音も、とても美しくて儚い、どこか異世界のような海辺の「創作者の家」の管理人の青年と、傷ついて死にかけていた子供の「森の生き物」とのひと夏の物語。

 生き物はブラフマンと名づけられる。住み込みの墓碑彫刻師の碑銘から選んだ。サンスクリット語で「謎」の意味だと小川洋子は書いているが、インド哲学ヒンドゥー教では「宇宙の源」を表す。

 この完全調和のひたすら美しい世界を壊してしまうものはやはり恋愛。「僕」が「彼女」へ寄せる思慕が思わぬ形で「ブラフマンの埋葬」につながってしまう。

 しかしそこには激しい怒りや悲しみや苦悩は描かれない。この世界独特の埋葬様式についての具体的内容が列挙されるだけだ。

   3 墓碑銘 「ブラフマンここに眠る」

   4 埋葬品
    ・赤いバラ模様の皿
    ・僕のスリッパ
    ・レースのおくるみ
    ・ラベンダー
    ・ひまわりの種十五個

 これだけで痛切な「僕」の哀しみが伝わってくる。

 ブラフマンというのはいかなる種類の生き物だったのかは最後まで語られない。当然だろう。語ってしまってはこの美しい世界の調和が脆くも壊れてしまう。

 ブラフマンとはあくまでも「謎」であり、おそらくは成長とともに失われていく何かとても大事なもののメタファーなのだから。

2: 人質の朗読会 

人質の朗読会 (中公文庫)

 8+1=9人の体験談。興味深いがそう大した物語でもない。ところがどのエピソードも痛切に胸に響く。小川洋子はあるプロジェクトに触発されてそんな小説をものにした。見事な腕前である。

 そのプロジェクトとは私の大好きな米作家ポール・オースターの「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」。ラジオ番組を持たされてネタに困ったオースターが妻シリの助言を受けて、リスナーから本当にあった面白い話を募ったところ、予想外の膨大な投書が寄せられたところから始まった企画で、もちろん本になり邦訳もされ新潮文庫に収められている。

 市井の名も無き人々が語ったのは、奇跡的な再会や驚くべき偶然、笑えるヘマ、思わぬ死との接近遭遇等々、まさしく「事実は小説より奇なり」を絵に描いた様な体験談であった。

 これを小川洋子はある地球の裏側の国で起こった誘拐事件に巻き込まれたツアー客七人とツアーガイドが、拘束された生活の中で自らの体験談を語る朗読会という形に置き換え、それを盗聴していた政府軍兵士のインタビューを加えた九つの物語で構成される実験的小説に転化してみせた。

 どの体験談もセンス・オブ・ワンダーに満ちているし、もちろん素人の投書とは段違いの質の高い文章である。特に「B談話室」「冬眠中のヤマネ」「コンソメスープの名人」などは単独でも優れた掌の小説と思える。「死んだおばあさん」に関する政府軍兵士の一言もスパイスが効いている。

 しかし「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」に優劣など無かったように、この小説のどのエピソードにも優劣など無い。朗読会が行われた環境と彼らの運命という通奏低音がそれぞれの語り口に実に深い陰影を与えているからだ。

 政府軍兵士の「(ハキリアリが)自分が背負うべき供物を、定められた一点へと運ぶ。そのようにして人質は、自分たちの物語を朗読した」という最後の一文が痛切に胸を打つ。

3: 薬指の標本

薬指の標本 (新潮文庫)

 ひやりと冷たくて肌触りのよい良質なセンシュアリティ。「薬指の標本」に感じたこの感覚は小川洋子の上品で不思議な感性と過不足ない筆致の賜物であると思う。

 サイダー工場での事故で薬指の先を失ったある若い女性。ある標本技術士の求人を見て吸い寄せられるように受付係に就職する。そこには焼跡に残った三つのキノコ、楽譜に書かれた音、文鳥の骨など、人々が喪失した思いを閉じ込めておくかのような注文品を持ち込む。まるで先日レビューしたクラフトエヴィング商會との共著「注文の多い注文書」のような世界である。

 しかし、ここはそんな安全な場所ではなかった。ある日その標本技術士が、彼女の足に完璧にフィットする黒い靴をプレゼントする。そして今後一切その靴以外ははかないように命じる。そしてそれが当然の成り行きであるかのように、ある日古いバスタブの中で彼女の服をすべて完璧な手つきで脱がせて彼女と交わる。もちろん靴は履いたまま。

 その靴を今脱がないと危ないよと諭してくれる靴磨きのおじさんもいたが、彼女は靴を脱がない。

「自由になんてなりたくないんです。このまま彼に封じ込められていたいんです。」

そしてその先に待ち受けているものは。。。

 指を失う事故の際にサイダーが血に染まって桃色に変色していく情景、三つのキノコの標本がゆらゆら揺れる様、顔の火傷の標本を頼まれた技術士がその頬の焼跡をなぞる指、段々と身体の一部と化す黒い靴。いろいろなものに心の奥底をそっとなぞられるような快感がある。

 そして最後に標本となるものは。。。ぞくっとする余韻を残して物語は終わる。ここまでひんやりと上質に、倒錯した愛と性を描写することは並大抵の技ではない。書けそうで書けない見事な筆捌きに小川洋子の本領を見た思いがした。

 もう一編の「六角形の小部屋」も現実と非現実の間を揺蕩うような物語ではあるが、「薬指の標本」に比べてやや現実的である。

 特に、主人公がある日憎むようになる恋人が医師で、「大事な」時にポケットベルが鳴って呼び出されるというのは、同業の私には切実すぎる。それにしてもなんでそんな事をこの人は知ってるんだ?想像で書いたのなら想像力が凄すぎる(笑。

 というわけで、レビューを見るとこちらの方を押す方が多いのだが、私には「薬指の標本」が圧倒的に優れているように思えた。この女性主人公ではないが、小川洋子に絡めとられていきそうだ。