ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

アゴタ・クリストフの三部作

 先日レビューした映画「悪童日記」でも解説しましたが、原作者はハンガリー人女性アゴタ・クリストフで、ハンガリー動乱の際オーストリアに亡命、その後スイスに定住し、辛苦の生活の末離婚、その後執筆活動に取り組み、本作の世界的成功で現代を代表する世界的作家となりました。

 その成功により、彼女は続編をあと二作出版、三部作となっています。もちろんいずれも「悪童日記」の双子が主人公で、第一作が「悪童日記」、第二作が「ふたりの証拠」、そして完結編である第三作が「第三の嘘」となっています。

 第一作が第二次大戦中から直後、第二作がハンガリー動乱をメインとした東西冷戦時代、そして本作はベルリンの壁崩壊後と、ハンガリーという国の大国に翻弄され続けた歴史を知る上でも興味深いですし、ハンガリー動乱の際に亡命したアゴタ・クリストフ女史が故国喪失と母語喪失の苦しみと哀しみを結実させた傑作群としても素晴らしいです。

 というわけで、先日この三部作を読了したのですが、いまだに

双子の真相

を許容すべきか、あるいはどう解釈すべきなのか、ずるずると後に尾をひいています。というのも第三作の題名どおり、アゴタ女史は「悪童日記」で第一の嘘、「ふたりの証拠」で第二の嘘、そして「第三の嘘」では題名通り第三の嘘をついていて、それがあまりにも衝撃的すぎるからです。
 嘘が最初から読み続けている読者にとって許容範囲内のものであれば何の問題もないのですが、もし前二作を完全否定するものであったら?映画に感動したものにとってはとても辛い読後感です。

 というわけで、ブクレコに投稿した三作品の感想をここに転載してみます。毒に当たる覚悟でアゴタ・クリストフの世界を堪能してみよう、双子の正体をどうしても知りたい、という方には三作品読破がお勧め、映画「悪童日記」の世界で十分満足だ、という方には第一作だけを読まれることをお勧めします。

悪童日記 (ハヤカワepi文庫)

 現在公開中の映画「悪童日記」の原作の邦訳(訳者 堀秀樹)である。原作者のハンガリー人女性アゴタ・クリストフハンガリー動乱の際オーストリアに亡命、その後スイスに定住し、辛苦の生活の末離婚、その後執筆活動に取り組み、本作の世界的成功で現代を代表する世界的作家となった。

 当然ながら映画化が期待されていたが、あまりにも過激でインモラルな内容であるためか、映画化権を獲得した監督はいたものの実現せず、30年間映像化不可能と言われてきたが、アゴタの故郷であるハンガリーヤーノシュ・サース監督がついに映画化した。

 私もトレイラーに興味を惹かれ、まずは原作を読んでみたのだが想像以上に様々な分野のモラルを否定するその過激な内容に畏怖の念さえ抱いた。本日映画を見終わったので、心象風景に加えて具体的なイメージもつかめたのでレビューしたいと思う。
 映画自体はヨーロッパ映画独特の寒色系の陰翳の濃い映像が内容とよくマッチしており、過剰な性的背徳性を思い切ってカットしてあることもあり、万人の鑑賞に耐える佳作であった。

 さて、原作は具体的な土地名は一切出てこないが、明らかにハンガリー第二次世界大戦から戦後混乱期が舞台である。当然ながらアガタ・クリストフの実体験に基づいていると思われるが、まだ「陰毛も生えていない」双子の兄弟が、突然放り込まれたモラルの崩壊した世界で生き抜いていく様子を、一章数ページという短い「日記」という形で、それも「真実しか記さない」という潔い簡潔な文体で延々と連ねていく独特の文体が目を惹く。その章一つ一つに様々な倫理的なテーマが詰め込まれている上に、それが重なり大きな流れとなり重厚な大河小説の体をなしている。

 その中で双子やウサギっ娘と呼ばれる兎唇の娘を始めとする登場人物が経験或いは実行する、貧困、自然環境の厳しさ、言葉の暴力、肉体的暴力、窃盗等の犯罪行為、性的倒錯、宗教差別(特にナチスによるユダヤ人迫害)、戦争被害(ハンガリーは戦中はドイツから、戦後はソ連から蹂躙され続けたのだ)、親子愛の結末の残酷さ、それら全てに関するインモラルが執拗に描かれていく様は、読んでいて気分が悪くなるほど。そんな中でわずかな好意を寄せてくれる人々も次から次へと消えていく(正しくは消されていく)。

 そんな善悪の彼岸に置かれた劣悪な環境の中で双子は思わぬしぶとさを見せ、欧州的宗教倫理観から見れば「悪」「罪」としか思えないような自らの倫理観を確立していく。そして自らに様々な常識外れの訓練を課し、肉体的にも精神的にも更には経済的にもタフになっていく。
 そして、彼らの最後の修行は「別れる」こと。ここまできて彼らの強さが「双子」であったことに読者は初めて気がつく。アゴタの見事な手腕に舌を巻く瞬間だ。

 双子のうち一人は最後に国境を越えて亡命する決心をし、一人は死んだおばあちゃんの家にとどまる決心をする。が、当然ながら鉄条網や地雷が行く手を阻む。それを安全に遂行するために選んだ彼らの手段とは。。。鳥肌の立つような戦慄の方法が爆音とともに心にズシンと響きわたる時、この物語は幕を閉じる。

 ちなみに以前レビューした「集団的自衛権の真相」という本で、強国が「被害国」に侵略する際に集団的自衛権が口実として利用されたという歴史が語られていたが、その真っ先に上げられたのがアガタが巻き込まれた「ハンガリー動乱」(ソ連による侵攻)だった。
 日本も節度ある外交のモラルをないがしろにしていると、この物語のような混沌とした世界にずるずると引き込まれないとも限らない、とかっこよく結べばいいのだろうが、まだ先がある。

 本作の大成功により、アゴタ・クリストフは「ふたりの証拠」「第三の嘘」と続編を執筆し更なる名声を得た、とある。読まないわけにはいかないだろう。

ふたりの証拠 (ハヤカワepi文庫)

 先日レビューしたアゴタ・クリストフの「悪童日記」の続編である。舞台は前作と同じくハンガリーの国境沿いの小さい町である。

 「悪童日記」のラストで主人公の双子の少年は、「別れる」という最も厳しい修行を敢行する。二人のうち一人は鉄条網と地雷の向こうの国へ行き、一人は死んだおばあちゃんの家にとどまる。前作では人物名は全く提示されなかったが、本作において初めて双子の名前が明らかとなる。

 留まったほうがリュカ(LUCAS)、亡命したほうがクラウス(CLAUS)。日本語で書いてしまうとわからないが、スペルがアナグラムになっている。それほど一心同体の存在であったことを作者は示唆しているのだろう、と思いつつ読んでいると、最後の最後にまたどんでん返しが待っている。ここでは、それはこの本の題名に関することだ、とだけ言っておこう。

 さて、物語はほとんどリュカが主人公で進行するが、今回は「ぼくら」という第一人称では語られない。第三人称の客観的記述で、リュカと彼を取り巻く人物群像が丁寧に描きこまれ、戦争が終わっても変わらないこの国の閉塞感と、悪童日記でも見られた性的なインモラル、いじめ、犯罪が描かれていく。その重苦しさは前作以上と言ってもいい。
 子供だったリュカも本作では15~22歳になっているのでそれも当然かもしれない。しかも、彼がある女が近親相姦で出産した奇形児を養うのだから余計に沈鬱だ。

 それはさておき、この国の閉塞感はソ連を後ろ盾にした全体主義によりもたらされている。反乱(おそらくハンガリー動乱)も不成功に終わる。「沈黙と、静寂と、秩序が」支配している世界だ。例えばこんな風な。

 リュカが前作からなじみの書店の店長ヴィクトールに尋ねる。

「こうして出まわっている子供向けの本はどれもこれも判で押したみたいに似ていて、本の中の物語も愚劣なものばかりです。(後略)」

 ヴィクトールは答える。

「仕方がないじゃないかね?大人の本だって同じことだもの。(中略)体制賛美のために書かれた代物ばかりだ。われわれの国にもう本物の作家はいないと思ったほうがよさそうだよ」

 この店長ヴィクトールは作家志望だったが、ただ一作の本も書けずに姉殺しで死刑になる。

 また、リュカに好意的な(同性愛嗜好の対象としてだが)共産党幹部ペテールにリュカは尋ねる。

「ぼくは何回かあなた方の政治集会を見物しました。あなたは演説をし、聴衆はあなたに拍手します。あなた、自分の言っていることを心から信じているんですか?」

 ペテールは答える。

「私は信じざるを得ないんだよ」「私は考えることをしない。そんな贅沢をする余裕はないのさ。私は子供の頃から、恐怖に取りつかれているんだ。」

 しかしこのペテールは一個の人間としてはとても優しく、(もちろん同性愛があるにせよ)献身的にリュカの面倒を見てやる好人物である。後半でリュカは致命的な失敗をおかす。絶望の淵に落ちた彼にペテールは語りかける。

われわれは皆、それぞれの人生のなかでひとつの致命的な誤りを犯すのさ。そしてそのことに気づくのは、取り返しのつかないことがすでに起こってしまってからなんだ

 リュカはこの後、この作品の舞台から姿を消す。

 入れ替わって終盤に登場するのはビザを持って帰国したクラウスだ。亡命した西側で彼が幸せだったかというとそうでもないようだ。白髪になったペテールにクラウスは語る。

「金銭を基本として成り立っている社会なんです。人生に関する問題の入り込む余地はありません。私は三十年間、死ぬほど辛い孤独の中で生きました。」

 ハンガリー動乱で亡命し、スイスで辛苦の生活を送ったアゴタの記述だけに説得力がある。

 どの世界で生きるにせよ、双子が引き離されることは決定的な「不幸」であり「困難な修行」であったのだ。その意味でリュカとクラウスは東西冷戦時代のヨーロッパそのものなのかもしれない。

 さて、そんな絶望的な世界でもリュカは手記を書き続け、クラウスはそれを引き継いだ。しかし、最終章でそれに大きな疑問符が打たれる。最初に述べた大どんでん返しだ。ビザの滞在期限が切れてとどまり続けるクラウスの強制送還依頼書で、この作品の登場人物中、はっきりと存在が確認されているのはクラウスと彼のおばあちゃん(マリア)だけだというのだ。。。

第三の嘘 (ハヤカワepi文庫)

 先日からレビューしてきた「悪童日記」「ふたりの証拠」に続く完結編である。この三部作はハンガリー動乱の際に亡命したアゴタ・クリストフ女史が故国喪失と母語喪失の苦しみと哀しみを結実させた代表作と世評も高い。

 映画が公開中の第一作が第二次大戦中から直後、第二作がハンガリー動乱をメインとした東西冷戦時代、そして本作はベルリンの壁崩壊後と、ハンガリーという国の大国に翻弄され続けた歴史を知る上でも興味深い。

 しかし「悪童日記」に深く感動した者にとっては、後の二作、とりわけ本作を読むのは大変に辛いものがある。

 なにしろ「悪童日記」には第一の嘘が、「ふたりの証拠」には第二の嘘が内包されており、本書も題名は「第三の嘘」であると言うのだ。
 日頃から小説家は上手に嘘をついてなんぼの商売だとこのレビューに書いている私だが、さすがにこの嘘の連続には参った。

 本書も嘘なら一体双子の兄弟の人生の真実は何処にあるのだ!?

 もちろんこれはノンフィクションではないのだから、読み手が全てを判断すればよい、と言われればそれまでだ。

 しかし普通に三作を読み通せば、どう考えても本作が真相解明編であるとしか思いようがない。そうすると前二作の内容はリュカの妄想の産物でしかなくなってしまう。

 これは猛毒を含んだ嘘である。読み応えのある作品群ではあるが読む方はそれを覚悟して欲しい。

 ちなみにアゴタ女史は「悪童日記」を書き上げた時点では三部作の構想はなかったという。しかし、もし続編を書くことがあれば、それに対応できるようにはしておいたそうだ。

 個人的には思う。世の中には封印しておいたほうが良い傑作もあるのだな、と。

 リュカよ、静かに眠れ!