ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

アルゲリッチ、私こそ音楽

Bloodydaughter
 衝撃のデビュー以来長らく第一線で活躍し続けるクラシック界きっての女性ピアニスト、マルタ・アルゲリッチ、彼女の三女ステファニーが等身大の母を捉えたドキュメンタリー映画、「アルゲリッチ、私こそ音楽」を観てきました。

 原題がステファニーの仇名「Bloody Daughter」であるように、ただのマルタ礼賛映画ではありません。ステファニーが10年の歳月をかけて母の実像に迫るとともに、自らの葛藤も正直に吐露した、見応えのある秀作でした。(ただしアルゲリッチに興味のない人には面白くもなんともありませんが)

『 2012年、フランス・スイス合作、配給: ショウゲート
原題: Martha Argerich - Bloody daughter

監督: ステファニー・アルゲリッチ
製作: ピエール=オリビエ・バルデ、リュック・ピーター
撮影: ステファニー・アルゲリッチ、リュック・ピーター

キャスト
マルタ・アルゲリッチ 、スティーブン・コバセビッチ 、シャルル・デュトワ、リダ・チェン、アニー・デュトワ

現代クラシック界で世界的ピアニストとして知られる、マルタ・アルゲリッチの素顔に迫ったドキュメンタリー。1941年、アルゼンチンで生まれ、スイスで育ったマルタは、子どもの頃から非凡な才能を発揮し、12歳でウィーンへ留学。16歳にして数日間のうちに2つのコンクールで優勝を飾り、24歳でワルシャワショパン国際ピアノコンクールで優勝。その後、あらゆる著名オーケストラとの共演を果たし、世界中で演奏活動を行っている。その一方で、急な演奏会キャンセルや一切の取材拒否、父親違いの3人の娘の存在など、私生活はスキャンダルと謎に満ちている。実娘のステファニー・アルゲリッチが監督を務めてカメラをまわし、天才と言われる母を持つ娘の視点から、知られざるマルタの姿を映し出していく。』

 映画は監督のステファニーの出産シーンから始まるという思いがけないスタートを切ります。もう70歳になったマルタ・アルゲリッチがおろおろしているのはちょっとユーモラス。

 アルゼンチン産まれで典型的なラテン系の彫りの深い美女だったマルタの今のすっぴんの顔を晒すのはちょっとお気の毒な気もしましたが、もうアルゲリッチもあんなおばあさんになってるのか、と思うと時代の流れの残酷さを思わざるを得ませんでした。

 その後もステファニーのナレーションで淡々と映画は進んでいきます。演奏シーンが少なかったのは残念でしたが、今までヴェイルに包まれていたアルゲリッチの私生活を垣間見ることができました。女性として奔放で激情型のイメージそのものの部分と、母親としての弱い部分、今でも演奏前はものすごくナーヴァスになるくせに終わると若返っているとステファニーがぼやくところなど、いろいろと知らなかったアルゲリッチを教えてもらいました。

 さて、内容の多くはその母親失格と言っていい、様々なトラブルと娘三人の母との葛藤を描いています。まずは三人のそれぞれ父親の異なる娘について簡単に整理しておきましょう。

長女リダ、1964年生まれ。中国人音楽家ロバート・チェンとの間に生まれる。マルタはリダを引き取らず、マルタの母ファニータが養育院に預けたものの、その後無断で連れ出して「誘拐事件」として逮捕されたことから、マルタは親権を失う。チェンとも離婚。

次女アニー。1970年生まれ。二番目の夫で高名な指揮者シャルル・デュトワとの間に生まれる。マルタは1974年に離婚するが、映画によるとアニーはコイン・トスでアルゲリッチ姓を受けついだ。

三女ステファニー。1975年生まれ。デュトワより前の恋人であったティーヴン・コヴァセヴィッチとよりを戻し、未婚のまま出産。2年後には破局しており、映画中でステファニーは自らの戸籍の父親欄が空欄になっていることを公開。父は認知に同意しているが、過去の経緯の複雑さによりこの認知の手続きが難しく30年以上にわたる苦闘が続いている、というシーンが映画中に出てくる。ちなみにステファニーと父は仲がよく、三人の娘の父のうち彼だけがこの映画に父親として出演している。

 これだけでもマルタがどんな人生を送ってきたか、想像に難くありません。その上夜型の彼女はしょっちゅう真夜中にボーイフレンドを家に連れてきて大騒ぎしたり、子供を学校に行かせたがらなかったりで、大変な母親であったようです。次女アニーは

「学校に行く!」が私の母への反抗心だったのよ、でも今思えばあの頃も確かに楽しかったわ。

と述懐しています。

 そしてこの映画の最大の見所、というか興味が集まる点は長女リダの「誘拐事件」でしょう。ステファニーも執拗に母に真相を聞きだそうとしますが、母は正確には答えてくれません。

 出産当時まだ22歳で精神的に混乱していたのは事実のようです。そして祖母も時々精神錯乱に陥ることがあり、その際にリダを預けたはずの養育院から連れ去ってしまったようです。マルタは母を刑務所に送るか、親権を手放すかのどちらかを迫られてやむなく後者を選んだ、というのが真相だったようです。

 母と一緒に暮らした思い出の無いこのリダが観ていて一番可哀想な娘だと思いましたが、彼女だけが音楽家への道を選びました。最初はピアニストになりたかったそうですが、ここにも母が巨大な壁として立ちはだかっていました。父チェンから

母親には絶対に勝てない

と諭されて諦めざるを得ず(それはまあそうでしょうね)ビオラ奏者になり、今では母とも定期的に共演しています。

 その一場面、確かメンデルスゾーンピアノ三重奏曲だったと思いますが、見事なものでした。本当に立派な方ですね。ステファニーは彼女が5歳のときにリダ(16歳)初めてあったそうですが、エキゾチックな美しさに魅了されたそうです。

 現在はその三人と母は上手くやっているようで、公演の芝生の上で歓談し、母にペティキュアを塗るシーンがとても微笑ましくて良かったです。

 それにしてもやはりマルタ・アルゲリッチは本当に感覚派ですね。ステファニーの質問にまともな答えが返ってこない。「そんなこと訊かれても上手くいえないわ、わかるでしょ、あんな感じよ」みたいな。演奏に関して一つだけわかったのは「妊娠すると演奏がやや遅くなる」ということ。

私の演奏は横向き(前のめり)なのよ、それが妊娠するとちょっと縦になるの

 これさえも、身振り手振りが主で結構わかりにくいしゃべり方をしているんですが、アルゲリッチの演奏の本質を吐露しているのはここくらいでしたかね。

 ちなみにショパンラヴェルなどのイメージの強い彼女ですが、一番好きなのはシューマンだそうです。その理由も上手くいえない(笑。

とにかくシューマンなのよ。

 次がショパンラヴェルモーツァルトベートーヴェンはその次、最低なのはシューベルト。。。だそうです。ただしプロコフィエフには特別な思い入れあり。

 現在は若手育成に力を注いでいる彼女ですから、もちろん別府アルゲリッチ音楽祭も出てきます。新幹線の中で不器用に箸を使って駅弁の散らし寿司を食べるシーンが微笑ましかったです。

 ちなみにステファニーの仇名「Bloody Daughter」の名付け親は父のスティーブン。彼の話では悪い意味はないそうです。マルタは彼に惚れたのか、彼の弾くベートーヴェンの協奏曲第二番に惚れたのか、多分後者であったのでしょう。それがマルタ・アルゲリッチ

「僕らには気楽でリリカルな時間がなかった。ときには深く、暗く、激しかった・・・・・・。あまりに真面目すぎたんだ。」(スティーブン・コヴァセヴィッチ)

評価: C: 佳作
(A: 傑作、B: 秀作、C: 佳作、D: イマイチ、E: トホホ)