ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

あなたの人生の物語 / テッド・チャン

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

 先日「SFマガジン700[海外篇]を紹介した際に、テッド・チャンというSF作家の作品が素晴らしかったと書きました。そのテッド・チャンの、本邦で唯一出版されている作品がこの「あなたの人生の物語」という短編集で8作が収録されています。これがまた、とんでもなくハイレベルの傑作揃いで驚きました。数学・物理学・言語学・哲学・医学等々が縦横無尽に駆使されており、私の前頭前野はオーヴァーヒート寸前でした。

 解説によると、テッド・チャンは中国からの移民一世の両親のもと、1967年にニューヨーク州で生まれたそうです。子供の頃は中国語が話せたそうですが今はさっぱりだとか。科学者を志し、大学で物理学とコンピュータ・サイエンスを専攻しましたが途中で前者を捨て1989年にブラウン大学を卒業。現在はシアトル在住でフリーランステクニカルライターの傍ら創作活動を行っているそうです。(山岸真氏のあとがきより)

 以前、土屋正雄氏がカズオ・イシグロの「夜想曲集」のあとがきで語っていたように、欧米では長編でヒット作を一作出せば数年は遊んで暮らせるだけに、儲からない短編ばかり書く作家はごく稀な存在です。
 しかるにテッド・チャンは大学卒業の翌年から2002年までの13年でこの短編集に収められた作品8作のみ、しかもそのうちの一作は最近世間をにぎわせた「Nature」誌からの正式な依頼による寄稿で、小説とは呼べないものです。
 ちなみにその後の2010年の追記でも、この前のSFマガジン700に掲載された「息吹」を含めて3作しか発表していないそうです。彼には創作活動はテクニカルライターの余技なのでしょうか?

 でありながら、彼はグレッグ・イーガンと並んで現代SFの旗手と目され、ファン投票で決まるヒューゴ賞、作家が選ぶネビュラ賞、短編を対象としたスタージョンを始め数多くの賞を繰り返し受賞、あるいは候補になっています。
 ちなみにデビュー作(「バビロンの塔」)でネビュラ賞を受賞した作家はこれまでにチャンが唯一であり、最年少記録でもあるそうです。またこれだけの作品だけでネビュラ賞を三回も受賞した作家はほかにいません。いかに彼が傑出したSF作家であるかがわかるでしょう。

 というわけで、傑作揃いのこの短編集、手強いですが、面白いこと請け合いです。では一作ごとに寸評・感想などを。

バビロンの塔」 ( Tower of Babylon、浅倉久志 訳)

 旧約聖書の有名な「バベルの塔」を題材とした秀逸な小品。旧約聖書では神の怒りにより、塔は崩壊してしまいますが、なんとこのパラレルワールドでは、塔が「天井」に到達してしまい、そればかりかそこに穴を開け掘り進めていきます。さてその天井はつきぬけられるのでしょうか。。。結末はやや凡庸ではありますが、塔を何日もかけて登っていく工夫たちが見る塔内外の描写が美しくもエキゾチックです。

理解」 (Understand、公手成幸 訳)

 テッド版アルジャーノンとでも言うべき作品。主人公が賢く(というレベルを超えているのですが)なり過ぎてこちらの頭が沸騰しそうでした。

「ひとつで全宇宙を表現する巨大な象形文字」!?

このレベルに達した男がもう一人出てくるんですから手に負えません(笑。
  一点だけ誤謬と思われる点を。ホルモンKの注射部位が最初は「骨髄注射」、二回目が「脊髄注射」となっており、邦訳の誤りだと思います。脳脊髄関門を問題にしているので、正しくは「脊髄腔内注射」の可能性大。

ゼロで割る」 (Division by Zero、浅倉久志 訳)

 「1=2
 この数式は「ゼロで割る」というインチキを途中に差し挟むことによって簡単に証明できます。いわばトリック。しかし、それを使わないで証明できてしまったとしたら?
 天才数学者である妻がそれを証明してしまい、ノイローゼになった挙句自殺未遂を図ってしまったら、夫は「インチキ(みせかけ)」ではなく彼女をいたわり愛せるのか?
 数学の矛盾を夫婦愛のメタファーとした小説ですが、テッド・チャンは頭がよすぎて恋愛模様、男女の機微を描くのはやや苦手、とみました。

あなたの人生の物語」  (Story of Your Life、公手成幸 訳)

 表題作にしてSFマガジン2014オールタイムベストSF海外短編部門第一位に輝いた作品です。

 地球の周回軌道に現れた異星人の言語解析を命じられた女性が、その言語体系を理解していくにつれて、自らもその思考様式で時間を「俯瞰」できるようになってしまいます。

 簡単に言うと人類は「逐次的認識」様式を発達させて言語体系を確立し、一方異星人は「同時的認識」様式を発達させました。よくわかりますね(笑。
 簡単に言うと、人類は因果関係をもって事象が順番に起こると捉えるので、未来は無限の選択肢があると考えます。一方異星人はあらゆる事象を同時的に体感・経験してその根源に潜む目的を知覚する。よって過去から未来までの事象すべてをひとつの表義文字で記述します。

 この言語解析の進む過程が綿密に語られるのと平行して、主人公の娘(「あなた」)の人生のいろいろな断面が時系列を無視して語られます。最初は戸惑いますが、途中から異星人の認識形式で語っているのだと分かってきて、また始めから読み直してしまいました。
 ちなみに娘の父の名前は一切明かされませんが、途中であるキーワードが出てきますので簡単に読み飛ばさないようにしましょう。

 最後は生まれてきた赤ちゃんを慈しむ主人公の姿で終わります。でもその時には異星人の思考形式を身につけていたわけで、娘の人生をその時点で最初から最後まで見通せていたはず。。。ということは主人公は生まれてきた赤ちゃんに「あなたの人生の物語」を語りかけているのでしょうか?。。。それはあまりにも切ない。。。

 異星人の言語・思考体系を言語学・哲学・数学・物理学等を駆使して解明していく、過去にない(であろう)ハイレベルのコンタクトものというハードSF的側面と、母親の娘への深い愛情と哀しみを吐露した「あなたの人生の物語」が見事に融合した、オールタイムベストに選ばれても全く不思議のない深い余韻を残す傑作です。二度、三度再読することにより、より深く感応できるので、再読をお勧めします。

七十二文字」 (Seventy-Two Letters、嶋田洋一 訳)

 さすがにこのあたりまで読み進めてくると疲れてきます(大汗。
 著者の言葉を借りれば「ゴーレム」と「前生説(生体は親の胚種の中にあらゆる部分が形成されている)」の二つからアイデアを得た短編。

 この物語の世界ではヘブル文字72個の組み合わせよりなる「名辞」が聖なる力をもち事象を支配します。よって「命名」という職業が存在するわけですが、主人公はそんな一人。

 彼はふとしたことからある組織に属することとなり、あと5世代で人類が絶えてしまうことを知らされ、それを解決する「名辞」を研究するが。。。彼の小説にしては珍しく殺し屋の登場するアクションシーンまであるのですが、全体としてはやや退屈な感が否めません。{あなたの人生の物語」が素晴らし過ぎた反動かもしれませんが。。。

 「名辞」を重要な鍵とした物語としてはやはりル=グイン女史の「ゲド戦記」が面白くてかつ深い世界を構築していて面白かったですね。

人類科学の進化」 (The Evolution of Human Science、古沢嘉通 訳)

 短編というよりはショート・ショート、あるいは内容からし科学雑誌のEdotorial Note。と思ったら著者自身が「ネイチャー」用に執筆したと語っていました。「さまざまな未来」という、来る千年紀に起こる科学の進展を扱ったフィクショナルな作品を発表する2000年の特集企画だったそうです。

地獄とは神の不在なり」 (Hell Is The Absence of God、古沢嘉通 訳)

 もし天使が実際に降臨し、数人に奇蹟を起こすけれども、その一方ではた迷惑なことに通り過ぎるだけで偶然そこに居合わせた人々に厄災や死をもたらすとすれば、それでも人々は神への信仰を続けられるのか?
 信仰心深い妻をその厄才によって失った主人公が悩み続け、最後の最後に地獄へ落とされ永遠に愛する妻の元に行けなくなってしまいますが、それでも彼は神を愛し続けるようになります。果たしてその理由とは?

 キリスト教世界であるアメリカでの本作に対する衝撃は想像に難くありません。その証拠にヒューゴ賞、ネビュラ賞を始め数々のSF関連の賞を総ナメしています。しかし罰当たりかもしれませんが、「聖☆おにいさん」を読んで笑っていられる私のような凡人には、彼の結論はすんなり受け入れられました。そう、神は公正ではなく、神は優しくなく、神は慈悲深くないのだ。

 テッド・チャンはこの着想を「ヨブ記」から得たと述べています。「バビロンの塔」といい、「七十二文字」といい、彼は旧約聖書の世界に相当の思い入れがあるようですね。解説を読んでも中国系アメリカ人である彼がユダヤ教徒であるとの記述はありませんが。

顔の美醜について - ドキュメンタリー」 (Liking What You See: A Documentary、浅倉久志 訳)

 これはもう単純に面白かったです。サイエンスライターとしてのテッドの一面を覗かせるインタビュー・レポート風小説。ちなみにドキュメンタリーとありますがあくまでもフィクションです。

 「美醜失認処置(通称カリー)」を推進しているある大学で、カリーを必要条件にしようとする学生会議案が持ち上がったことによる騒動を、種々のインタビューや講義、ニュース、CMなどを巧妙な配列で並べることにより手際よく描いています。

 この「カリー」を施すと、容貌の差異を見分ける力は失われませんが、その差異についての審美的反応が欠如します。よい点としては顔の美醜による差別やいじめがなくなること、美容整形を受けたがるティーンエイジャーが減ることなど。たとえば顔半分が火傷でケロイド化している女性がこの大学ではカリー処置を受けている学生が多いため、何の負い目も感じずに学んでいます。
 反対派の意見としては、これは社会的な管理であり、ポリティカルコレクトネスの暴走である、審美眼が失われそれに関係する職業への就職が困難になる、カリーを逆利用して就職差別がかえって横行するなど。

 テーマが誰もが気になる話題であり、高尚な理論から卑近な経験談まで実に多様な論点が吟味されていて飽きることがありません。さて、皆さんならどうしますか?

 ひとつ面白かったのは推進派会長の講演:「コカイン」が快楽リセプターを異常なほど強烈に刺激して依存性を起こすのに例えて、広告宣伝業界が提供しているトップモデルの美貌は「視覚的ドラッグ」であり、われわれの美貌リセプターは処理可能限度以上の異常刺激を受けている、それはたった一日でわれわれの祖先が一生涯に受けた量の刺激でありその結果美貌は徐々に私たちの生活を破壊する。というもの。うなづけないこともないですね。

 というわけで、面白くてページをめくる手を止められないほどですが、なるべく一作一作を丁寧に読むべき珠玉の作品集であると思われます。SFファンのみならず多くの本好きの方にお勧めです。今頃言うな!とSFファンの方から怒られそうですが。。。