ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

ゴジラの精神史 / 小野俊太郎

ゴジラの精神史 (フィギュール彩)
 怪獣映画の元祖にして今なお世界的な知名度を誇るゴジラGodzilla)。その第一作「ゴジラ」が公開されたのが1954年なので、今年でゴジラも還暦を迎えます。200万年前の恐竜が水爆実験を機に蘇ったのですからデーモン閣下風に言えば言えば200万60歳と言えなくもありませんが(笑。

 冗談はともかく、それ以後東宝が制作したゴジラ・シリーズは28本にのぼり、ハリウッドでも1990年代に一本、そして近日公開される新作が待ち受けています。
 何故かくもゴジラは不滅なのか?それは第一作「ゴジラ」でゴジラが白骨化して死んだためその後のゴジラ造形の自由度が増したからである、という多分に逆説的で興味深い論を展開しているのが本書「ゴジラの精神史」です。

 正直なところ、怪獣映画黄金時代と映画興行の裏側を多少なりとも知っている者としては東宝の経営戦略的問題だろうと醒めた目で見てしまいますし、あえて還暦だからとか、ハリウッド新作が出るからとか言ってこういう類の解説書をあらためて読む気もありませんでした。

 しかし本書は以前紹介したことのある「モスラの精神史」や、その第二弾「大魔神の精神史」という良書を著された小野俊太郎氏がついに本丸のゴジラに挑戦されたということで興味を惹かれて読んでみました。

 結論を言うと、今回ばかりは小野氏も膨大なゴジラに関する資料をまとめきれず、また一方では深読みしすぎている面も否めず、残念ながらゴジラに返り討ちにあったかな、という印象を受けました。

 さて、本書も「精神史」と銘打たれたシリーズである以上、「ゴジラ」が制作された時代背景について詳細に検討されています。

  1954年といえばまだ敗戦の余韻が強く残る時代であり、太平洋戦争の記憶と原爆の恐ろしさ、そしてビキニ環礁での水爆実験による第五福竜丸被爆事件が作る側にも見る側にも大きな影を落としていた、という指摘に異論はありません。そこから

ゴジラ=太平洋戦争戦死者英霊説、復員兵説、怨念集合体説

ゴジラアメリカ(B-29東京大空襲)説

が出てくるのは必然でしょうし、しかもこれら諸説の多くは過去の加藤典洋川本三郎佐藤健志等の錚々たる論客の文献からの引用であるのである程度の説得力はあります。

 しかし、そこから100年遡って

ゴジラ=黒船説(ペリー来航)、地震(→鯰)説(安政地震

まで持ち出され、「大魔神の精神史」で展開されたような破壊神と救済神の怨霊信仰、さらには

「東京破壊=世直し:ゴジラ=福」

説まで持ち出されると、そこまでいかなくても、と思わないでもありません。というか、小野氏はこれらの諸説のどれを取るのか、ご自身の立場をもう少し明確にしてほしかったと思います。

 一方で初代「ゴジラ」の大きなテーマであった「放射能」の問題に日米の「ゴジラ」で大きな差があったことに関しての論旨は明快です。
 ゴジラアメリカが使用した原爆や水爆の象徴としての最終兵器だとすれば、芹沢博士の「オキシジェン・デストロイヤー」は日本が戦時中極秘に開発していた原子爆弾化学兵器に置き換えた「最終兵器」であり、この映画は最終兵器同士の対決なのだというのが日本版「ゴジラ」の総括です。だから勝者はなく、ゴジラは白骨と化して海に沈み、芹沢博士も開発方法を胸に秘めたまま自ら海の底へ沈み、痛み分けとなるのが必然だったのです。一見無理があるようにも思える説ですが、アメリカ版「ゴジラ」が自らに不利な核問題を徹底的に排除して水爆怪獣映画ではなく、ただの「モンスター映画」にしてしまったことを考えると、それなりの説得力があります。

 このような制作時の世相の考証にかなりのページ数を割いたせいか、「モスラの精神史」に見られたような、田中友幸と七人のスタッフといった異種分野の精鋭が知恵を寄せ合って映画を制作する過程をわくわくするような筆致で描いた制作譚は残念ながら影を潜め、監督本多猪四郎や原作者の香山滋ベルヌの「海底二万里」、映画「原子怪獣現る」「キング・コング」に多大な影響を受けた過程が述べられる程度にとどまっています。

 何故ゴジラの体調が50メートルに設定されたのかとか、海のセットが得意だった東宝の話とか、足音がゴジラの象徴なのであのような歩き方になったであるとか、ゴジラの語源は巷間言われているような「ゴリラ+クジラ」説ではなく東宝演劇部の容貌魁偉なおっさんの仇名(グジラ)からとられたというのが真相らしいとか、その辺のトリビアは面白かったので、そのあたりの制作秘話的なエピソードをまとめて一章を費やしてほしかったところでした。(あとがきによれば井上英行著「検証ゴジラ誕生」という決定版があるのであえて踏みまなかったそうです。)

 その他の話題としてはヒューマンドラマとしての一つの核である山根恵美子という女性を掘り下げた点や、三島由紀夫も絶賛したという「海」のドラマとしての視点などは面白く印象に残りました。

 最終章の「その後のゴジラの足跡」はやや駆け足過ぎた点が否めません。私が映画衰退期の断末魔の作品と思っている「ゴジラ対ヘドラ」が意外に高評価なのも違和感がありましたし、

「還暦とはいえコジラに赤いちゃんちゃんこを着せて現役引退させるわけにはいかないはずだ」

と言っておられるのに、東宝ゴジラ映画50年の歴史に終止符を打つと宣言して製作したものの見事な駄作に終わった「ゴジラ ファイナルウォーズ」について触れられていないのも不満の残るところでした。

 しかし、あとがきに書かれているように

「今求められているのは、安易な続編ではない。未曽有の天災と人災の双方を体験した日本に必要な新しい叙事詩なのだ。その夢ははたしてかなうのだろうか。」

という問いは重要だと思います。今回のハリウッド映画も、ゴジラをただ都会を破壊しつくすだけのモンスターとしか描かれないのであれば、その夢はかなわないでしょう。夢をかなえるとすれば、未曽有の災害を経験した新しい日本の世代の新しい田中友幸本多猪四郎香山滋であってほしいと思います。