ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

闇の中の男 / ポール・オースター著、柴田元幸訳

闇の中の男

 先日レビューしたように、「写字室の旅」を上梓されたばかりの柴田元幸氏ですが、オースターの次の作品「Man In The Dark」の翻訳が完成し、このたび出版されました。「写字室の旅」のあとがきで鋭意翻訳中であるとは書いておられましたが、こんなに早く出るとは思いませんでした。東京大学を退官されてペースが速まったようでオースター・ファンとしては嬉しい限りです。

 さて、本作は以前レビューしましたようにオースターの作品の中でも出色の出来で、個人的には彼の小説の中でもベスト5に入る傑作だと思っています。その翻訳を柴田訳で読むのも楽しみの一つ。さて、邦題「闇の中の男」の出来栄えはいかがでしょう?早速読んでみました。

『 ブルックリン在住のオースターが、9・11を、初めて、小説の大きな要素として描く、長編。ある男が目を覚ますとそこは9・11が起きなかった21世紀のアメリカ。代わりにアメリカ本土に内戦が起きている。闇の中に現れる物語が伝える真実。祖父と孫娘の間で語られる家族の秘密――9・11を思いがけない角度から照らし、全米各紙でオースターのベスト・ブック、年間のベスト・ブックと絶賛された、感動的長編。 (AMAZON解説より) 』

Titus

  レビューに入る前に、以前のレビューに引き続いてもう一度この絵画をアップしておきます。レンブラントの「修道士に扮する息子ティトゥス」という作品です。本書では英語読みでタイタスとなっていますが、早逝したレンブラントのご子息です。オースターは本書のキー・パーソンとなる人物にこの名前を与え、

   「呪われた名、永遠に流通を禁じられるべき名

だと述べています。私はこの実物を昔「アムステルダム美術館展」で見たことがあります。レンブラントの特徴である明暗法を駆使した傑作でしたが、確かにタイタスの肌は蒼白で生気が無く、そのことがかえって強い印象を残しました。この本を読んでみようと思われる方には参考になる絵だと思います。

 さて、以前のレビューでも書いたように本書の出版と同じ頃の2009年、日本では村上春樹の「1Q84」が社会現象を巻き起こしていました。同時進行でこの二書を読んでいた私はこんな風に書いています。

『 どちらもパラレルワールドというテンプレートの中で架空のアメリカ、日本を描き、それにより現代社会の病根を痛烈に告発しています。かたや日本の村上春樹はフィクションとしては初めてオウム真理教事件と正面から向き合い、かたやアメリカのPaul AusterはThe Brooklyn Folliesに引き続きブッシュ政権の失政と9.11事件と再び向き合っています。

 「各地で紛争が絶えない世界の多くの現実をテーマにした優れた衝撃的な小説」とAmazonの解説にはありますが、確かに本書を読むとブッシュ時代の暴力に満ちた世界情勢が彼の心に与えた深い傷がこちらの心にも痛いほど沁みてきます。それはとりもなおさず(日本人にオウム事件が与えた衝撃と同様に)アメリカ国民の多くが負っている心の傷なのでしょう。 』

 随分肩に力の入った文章で恥ずかしい限りですが、柴田氏のあとがきを読んで「あっ、やられた!」と思いました。同じことをこんなにもスマートに喝破されているのです。

『 原題は、A Man...でもThe Man...でもなく、無冠詞のManである。闇の中にいるのは主人公だけではない。人類全体が、というのが言い過ぎならアメリカ全体が、闇の中にいるという含みがここには感じられる。』

プロとアマの違いはこういうところに出る、という見本ですね。

 閑話休題、では本書は真っ向からブッシュ批判を展開しているのか、というとそうではありません。むしろ逆説的に話を進めるのがオースターの憎いところです。

 主人公の老人オーガスト・ブリルが眠れぬ夜に夢想する第二のアメリカでは、9.11もアメリカ軍によるイラク侵攻も起きていません。そのかわりに合衆国内で内戦が起きており、それはもう彼の初期の代表作「最後の物たちの国で」を思い起こさせるような、荒涼たるひどい世界です。

 ブリルが暴力に満ちていた現実世界よりさらにひどい世界を夢想しなければならなかった理由はどこにあるのか?
 ディストピア小説とブリル家のそれぞれに傷ついた家族の再生の物語がジグソーパズルのように入り組んだ複雑な構成のこの小説は、主人公の孫娘の元恋人タイタスの動画という最後の1ピースがはめ込まれることによりようやく事の本質が明らかとなります。

 その核心となる描写には、今回もやはり心を鷲掴みにされるような痛みを覚えました。「ブルックリン・フォリーズ」のラストで効果的に9.11を使った手法も見事でしたが、本書のほうがはるかに衝撃度は高いと思います。オースターが久々に見せた剃刀のような切れ味のストーリーテリングでした。

 そして柴田元幸氏の訳も安定したクオリティを保っておられ、安心して読むことができます。特に今回は一つだけ、日本語であるアドバンテージがありました。

 オースター得意の映画評論がこの小説にも散りばめられているのですが、特に多くのページ数を割いて解説されているのが小津安二郎の傑作「東京物語」です。原文では当然登場人物の台詞も英語なのですが、訳文だと映画そのものの台詞を用いることができます。笠智衆原節子の声が聞こえてきそうな素晴らしいレビューを日本語で読める嬉しさは格別でした。

 さて、今のところ自伝を除けばあとは「Invisible」「Sunset Park」の二作品が残されています。柴田元幸氏の翻訳が出ることを楽しみに待つことにします。