ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

利休にたずねよ 山本兼一

利休にたずねよ (PHP文芸文庫)
 もうすぐ市川海老蔵主演で公開される映画「利休にたずねよ」の原作を読んでみました。史実に良く知られた千利休の最期を基点として、時系列を次第に遡りながら、利休の若き日の恋を徐々に明らかとしていく、その構成の妙に感服しました。「火天の城」も原作、映画ともに面白かったですが、この小説はそれ以上に完成度の高さと面白さを兼ね備えた時代小説でした、映画も市川海老蔵という当代切っての色男が主演するとのことで大層楽しみです。

 「侘び茶」を完成させたと言われる千利休。しかしその実、彼自身は枯れた男だったのだろうか、いやそうではなく天賦の才に加え、内に熱情や美への貪欲なまでの執着を秘めていたからこそ、あれだけの茶道を完成させたのではないか。
 おそらく作者の最初の着眼点はそこにあったと思います。そしてその熱情と美への執着の源として、若き日の悲恋とその形見を創作し、最終的にその悲恋に物語を収斂させていくことにより見事に千利休という一人の男の生涯を描きつくしています。
 勿論フィクションですから本当に千利休がそういう男であったのかどうかは知る由もありません。しかし、山本氏にかかると、本当にそういう男であったのだろうと納得させられてしまいます。千利休並みの凄みのある筆力の持ち主だな、と感嘆してしまいました。

『 女のものと思われる緑釉の香合を肌身離さず持つ男・千利休は、おのれの美学だけで時の権力者・秀吉に対峙し、天下一の茶頭に昇り詰めていく。刀の抜き身のごとき鋭さを持つ利休は、秀吉の参謀としても、その力を如何なく発揮し、秀吉の天下取りを後押し。しかしその鋭さゆえに秀吉に疎まれ、理不尽な罪状を突きつけられて切腹を命ぜられる。利休の研ぎ澄まされた感性、艶やかで気迫に満ちた人生を生み出したものとは何だったのか。また、利休の「茶の道」を異界へと導いた、若き日の恋とは…。「侘び茶」を完成させ、「茶聖」と崇められている千利休。その伝説のベールを、思いがけない手法で剥がしていく長編歴史小説。第140回直木賞受賞作。 』

 本作は24の短い章で構成されています。それぞれの章に人物名が付与されており、その人物からみた千利休像が語られていきます。それも第一章に

「死を賜る」 利休

として切腹当日の千利休の述懐を持ってくるという倒叙型の構成となっています。倒叙型と言えば推理小説が殆どでこのような歴史小説では珍しい構成です。

 最初の数章はこれでどういう盛り上がり方ができるのだろうか、と不安になってしまうほどでしたが、秀吉の不興を買ってしまった理由として、秀吉の要請を拒絶するほどに千利休が大切にしている「緑釉の香合」という高麗の絶品が鍵を握っていること、それにおそらく「」が絡んでいることが示唆されるにつれ、この物語は次第に熱を帯びてきます。

 しかしそこで焦って物語を性急に進めず、様々のエピソードを積み重ねながら利休像を丹念に構築し、更には作者の「侘び寂び」の流行と「真の審美眼」についての卓見を自在に織り込みつつ完成間際の茶道を描きつくすことにより、物語により深みを持たせています。
 茶道に暗い私でも触れれば切れるような鋭利な千利休の手になる茶道具、活花、茶室等の美しさは十分に脳裏に想起できました。「何でも鑑定団」を見ていることも多少の役には立ったと思います(笑。

 閑話休題、その登場人物の多さ、その人選の妙には感嘆します。章名だけ見ても

千利休
秀吉
細川忠興
古溪宗陳
古田織部
徳川家康
石田三成
ヴァリニャーノ
崇恩(利休の妻)
山上宗二
あめや長次郎
千宗易
織田信長
たえ(利休の先妻)
武野紹鷗
千与四郎(利休の元名)

と多士多彩。そして彼等彼女等、あるいはその章の登場人物が様々な角度から利休という謎に満ちた男をあぶりだしていきます。なかでも黒田官兵衛の語る

「侘び茶と称しながら、利休居士の茶はまるで枯れておりません。むしろ、うちになにか熱いものでも秘めておるような」

という言はおそらく山本兼一氏の利休観そのものなのでしょう。

 勿論利休自身の語る哲学にも深い含蓄を持たせています。中でも古溪宗陳の「三毒の炎」の章はその白眉でしょう。秀吉の怒りを買って九州に追放される宗陳が、仏法の三毒(むさぼり、いかり、おろかさ)について思いをめぐらせておきながら、利休に己の増上慢をぴしゃりと砕かれる場面。

「人はだれしも毒をもっておりましょう。毒あればこそ、生きる力もわいてくるのではありますまいか」
「肝要なのは、毒をいかに、志にまで高めるかではありますまいか。高きをめざしてむさぼり、凡庸であることに怒り、愚かなまでに励めばいかかでしょう」

と静かに語る利休の凄み。今の世にもそのまま通ずる哲学ではないでしょうか。感服低頭して去った宗陳は

「利休の心の底にはいったいどんな毒の焔が燃えているのか。」

と空恐ろしくなってしまいます。

 その毒の焔の根源は後半に入り次第にその姿をあらわにしていきます。そして最終章の一つ手前

「恋」 千与四郎

に於いて、ここでそれまで抑制に抑制を重ねていた熱情が一気に放出され、劇的なクライマックスを迎えます。

 しかしそれだけで終わらないのが山本兼一の真骨頂。最終章での

「夢のあとさき」 宗恩

での宗恩の、それまで溜めに溜めていた暗い熱情を一気に開放する行動にも鳥肌が立ち、そして物語の見事なまでの落とし前のつけ方に思わず「参りました」と呟いている自分がいました。

 これほどの、そう千利休の審美眼並みの、完璧な創作時代小説は滅多に産まれるものではないでしょう。このどこを損なっても崩れてしまいそうな小説をどう映画化するのか。「火天の城」に次いで山本作品を監督する田中光敏の手腕に期待したいと思います。