ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

冷血 / 高村薫(上)(下)

冷血(上)冷血(下)
 私の尊敬する作家、高村薫の最新作「冷血」です。前作「太陽を曳く馬」を書き終えたときに女史は「次は思い切りベタなものを書きたい」と述べておられました。確かに「太陽を曳く馬」のような難解な形而上の思想論争は影を潜め、ベタな形而下の世界に生きる二人の男が成り行きで起こしてしまう殺人事件が本作の根幹を成しています。その分前作よりははるかに読み易くなっていますが、だからといって決して軽い小説ではなく、人間の不条理、社会の不条理を描く女史の小説世界の重さは変わる事がありません。
 ちなみにサンデー毎日連載中は「新 冷血」という題名で連載されていましたが、その名の通り、以前拙ブログでも紹介させていただいたトルーマン・カポーティの名作「冷血」から着想を得て書かれています。
 カポーティの「冷血」はカンザス州で起こった一家4人惨殺事件をカポーティ自身が5年余りの歳月を費やして綿密な取材を遂行し、犯人2名が絞首刑に処せられるまでを見届けたノンフィクション・ノヴェルで、「ニュー・ジャーナリズム」という新しい小説の形態を開拓しました。
 折角その「冷血」を名乗るのであれば高村薫流のノンフィクション・ノヴェルを読んでみたかった気もしますが、この小説は全くのフィクションです。とはいうものの、カポーティの視座に迫り、架空の殺人事件から見えてくるこの世界の不条理を可能な限りの言葉を尽くして描く所謂「高村節」は健在で、やはり高村薫が書く小説は格が違う、と感じながらじっくりと読ませていただきました。

『 2002年クリスマス前夜。東京郊外で発生した「医師一家殺人事件」。衝動のままATMを破壊し、通りすがりのコンビニを襲い、目についた住宅に侵入、一家殺害という凶行におよんだ犯人たち。彼らはいったいどういう人間か?何のために一家を殺害したのか?ひとつの事件をめぐり、幾層にも重なっていく事実。都市の外れに広がる<荒野>を前に、合田刑事は立ちすくむ― 人間存在の根源を問う、高村文学の金字塔!

「この身もふたもない世界は、何ものかがあるという以上の理解を拒絶して、とにかく在る。俺たちはその一部だ」
犯行までの数日間を被害者の視点、犯人の視点から描く第一章『事件』、容疑者確保までの緊迫の2ヶ月間を捜査側から描く第二章『警察』を収録。(「上巻)

「子どもを二人も殺した私ですが、生きよ、生きよという声が聞こえるのです」
二転三転する供述に翻弄される捜査陣。容疑者は犯行を認め、事件は容易に「解決」へ向かうと思われたが・・・・・・。合田刑事の葛藤を描く圧巻の最終章『個々の生、または死』収録。(下巻)
AMAZON解説より)』

 まず第一章「事件」では、一家四人惨殺事件がおこる前日までの3日間が、携帯サイトで知り合った犯人二人と、その犠牲になる一家の長女、三者のモノローグを通して丹念に描かれています。
 犯人二人の無軌道な行動振りと、犠牲となる歯科医一家の上流とは言えごく常識的な生活の対比がその後に起こる惨劇の理不尽さを際立たせています。手法としてはありふれたものですが、2002年12月という時代の世相や、犯人の生活圏を丹念に描く高村薫の文章はやはり読み応えがあります。
 本書に関するインタビュー(*)で、このように犯人と被害者の生活を丹念につづった理由を女史は

「土地と人間は一体。風景が人間を作るし、行動を決めていく」

との信条から描いたと述べています。特に犯人二人が生活圏としている、首都圏を半環状に走り、大型店舗や工業団地が連なる国道16号線。女史は

「どこまでも同じような殺伐とした風景は、戦後豊かになったといわれる日本の掛け値なしの姿です」

と述べ、多くの無慈悲な犯罪を生む現在日本の社会風土に鋭い警告を発しています。

 続く第二章「警察」には待望の合田雄一郎刑事が登場。12月24日の朝に歯科一家四人の惨殺死体が発見されるところから二人が逮捕されるまでの三ヶ月間の警察の捜査が克明に描かれます。「マークスの山」「照柿」「レディ・ジョーカー」の合田三部作で培ってきた警察内部の描写は高村薫ならではのもので、徹底的なディテイルの書き込みから醸し出される現実感は他の追随を許さないものがあります。

 この二章からなる上巻において、カポーティの「冷血」を21世紀初頭の日本に置き換えた理不尽な一家四人惨殺事件が完成します。
 当時の世相、事件、風俗を徹底的に掘り起こし、医学、歯科口腔外科学、農業、映画、文学、漫画、パチスロ、族車、裏社会等々感嘆するほどの多岐にわたる情報を自由自在に散りばめて構成される小説世界には興奮を禁じえず、ページをめくる手を止める事が出来ませんでした。
 まるでノンフィクションを読んでいるような徹底したリアリズムは実際に起こった世田谷一家殺人事件や裏サイト殺人事件を想起させますし、ある程度女史も意識しておられるのではないかと思いますが、これはあくまでもカポーティが描いたカンザスの殺人事件のフィクションでの再現であり、その視座での犯人の内面への追及が下巻で展開されることになります。

 その下巻は第三章「個々の生、または死」のみで成立しています。2段組で289頁という膨大な文章で構成されるこの章は「動」の上巻から一転して重く深く人間の内面の不条理へと沈潜していきます。

 逮捕された二人はあっさり犯行を認め、その供述に特に矛盾点も認められない。犯人が海に捨てた凶器「根切り」は多額の費用を投入しても見つけられなかったものの、それ以外の物証、状況証拠はほぼ完璧に揃っている。問題は動機だけ。空き巣のつもりで家に侵入したら人がいたので「成り行きで」「勢いで」動いただけで、殺すつもりはなかったと繰り返すばかりの二人。一方で裁判に必要な納得できる動機と殺意を詰めるように迫る検察側。両者の板挟みになり苦悩する合田雄一郎。

 一人は双極性障害(昔で言う躁鬱病)の血筋(**)で本人も明らかにその気があり、聴取のたびに供述は二転三転する。とはいうものの、瞬間的に感情が爆発してしまう性癖から起こした犯罪であることはおそらく間違っていないのであろう、と合田は推測する。
 もう一人は持病の歯根のう胞炎から下顎骨骨髄炎を併発しており取調べより治療を優先せねばならない厄介な状況。その後小康を得たものの、子供二人を殺したことに関しては勢いでやったと繰り返すばかりで、敬愛していた叔父が自分を見放していることを知ると後は貝となり何もしゃべらなくなる。程なくして歯肉癌も併発し、敗血症であえなく最期を迎えてしまうという、警察にとって痛恨の事態。

 一見単純な事件で世間の一般感情としても過去の判例からみても死刑は免れ得ない。とは言うものの、上述したような状況で検察が求めるような理路整然とした書類を書けるものなのか?合田の悩みは高村薫の自問でもあります。インタビューで女史は

「事件は多様な姿をしているのではないか。人間が理解できないということを肌で分かるバランス感覚を、合田に持たせたかった」

と述べています。その通り、合田の読む調書やICレコーダーに記録された取調べのやりとりからは

「生身の男たちが目の前に立ち上がる。その重さや迫力によって、人間が生きていることの文句なしのすごさを考えるようになる」

と述べるように、二人の殺人犯の身体精神状況、家庭環境、社会環境、犯行時のおぞましい行動、逮捕後の言動等々が執拗に描写され、それは時として過剰で嫌悪感、退屈まで感じるほどです。実際ネットでいろいろな書評を読みましたが、犯人側に感情移入しすぎで被害者側に寄り添うような記述が見られないことを批判する意見が少なからずありました。

 個人的に気になった箇所を一つ挙げてみます。下巻半ばで敗血症性ショックに陥った犯人が搬送された先の医師が合田の言動を不愉快に感じ、言い返す場面があります。少しだけ引用してみましょう。

「(前略)こちらの口腔外科でまた一から検査だし、それだって税金で賄うんですから。だってあの患者、北区の歯科医一家を殺した人なんでしょ?運命の皮肉もここまで来ると、笑うほかないってところですが、私が歯科医なら、歯科医を殺しておいて自分の歯の治療なんかしてもらえると思うなって言いますよ、たぶん。(中略)いずれ死刑になる人間でも、その日まではICUの管理料だけで一日八万も九万もかけてやるんですか(後略)」

 これを作者は地の文で「骨が震えるほどの冷血」と切って捨てます。しかし私にはこの医師が犯罪者と同等の冷血とはとても思えません。確かに生死の境を彷徨う患者に対して残酷な言動ではありますが、「一般市民感情」としてはごく真っ当なのではないでしょうか。もちろんフィクションですから、敢えて女史は読者の感情を逆撫でしてまで「一般市民感情」なる不確かなものに疑問を投げかけているのでしょうけれども。

 かくのごとくのやりきれない感情を無理にでも収めるための死刑制度ですが、死刑廃止論者でもある女史はインタビューにおいて

「4人を殺したイコール死刑、となる。死刑も一つの収め方だが、生きた人間を絞首刑にするというのも大変なこと。よく考えてみた方がいい」

とその単純な思考方法を批判しています。その通りに反省の言葉一つ出てこない犯人の内面に合田は理屈を通り越して寄り添っていくのですが、凡人である一読者としては常に違和感が拭えませんでした。

 とは言え、そのような反感、違和感をものともせず最後までぐいぐいと読む者を引っ張っていく女史の筆力はさすがの一言に尽きます。
 また、合田が関わっている他の医療過誤の調査、合田ファンへのサービスとも言える義兄との手紙のやり取り等々の、枝葉末節の詳細な書き込みもカポーティの流儀と呼応しているかのようで、「冷血」を名乗るに相応しい内容となっています。
パリ、テキサス デジタルニューマスター版 [DVD]  個人的には私の大好きな映画である「パリ、テキサス」と大好きな女優であるナスターシャ・キンスキーについて何度も言及していただいているのが嬉しかったです。あれは「侘しいアメリ」を描いた映画なのだという指摘には唸らされるものがありました。

 閑話休題カポーティの「冷血」の視座で描かれた本作は

井上克美の死刑は、平成十九年十月二十六日午前九時四十五分、東京拘置所にて執行された。(完)」

というたった2行の文章に女史の万感の思いをこめて幕を閉じます。

 カポーティの「冷血」がノンフィクションで本作がフィクションであるという決定的な違いが読後の余韻にはっきりとした温度差を生じさせているのはやむを得ないところですが、小説としての完成度はさすが高村薫と唸らせるものでした。カポーティはそれ以後一作も小説を書けなくなり亡くなってしまいましたが、高村薫にはこれからも書き続けていただきたいと願って止みません。

 * 文中の「インタビュー」は本年12月2日に神戸新聞に掲載された記事です。

** 双極性障害は遺伝要因の強い疾患ですが、厳密な意味での遺伝病ではありません。