ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

ノルウェイの森 / 村上春樹

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)ノルウェイの森 下 (講談社文庫)
 今日からいよいよ映画「ノルウェイの森」公開ですね。トレイラーを見た限りではマツケンのモノローグに違和感を感じますが、ベトナム人監督の美的センスは結構良さそうな気がしました。ちなみに主なキャストは下記の通りです。

ワタナベ: 松山ケンイチ
直子: 菊池凛子
キズキ: 高良健吾
緑: 水原希子(良く知りませんがモデル出身とのこと)
レイコ先生: 霧島れいか
永沢: 玉山鉄二
ハツミさん: 初音映莉子
突撃隊: 柄本時生

 主人公の松山ケンイチ村上春樹とは似ても似つかぬ外観だし、セリフ回しも何か自分の持っているイメージが違う気がするのが心配。まあ原作で、あれだけもてまくってセックスしまくるんだから、タッパもあってイケメンでないといけないのかもしれませんが。。。
 影の主人公であるキズキは出演させない方が神秘性が付与されていいんじゃないかと思うのですが高良健吾が演じるようですね。
 一方でエリートコースを約束されたニヒリスト永沢に「ハゲタカ」等々で鋭利な印象を与える玉山鉄二、寮の同室の突撃隊に「シーサイドモーテル」のチンピラ役で公演していた柄本時生というあたりはなかなか面白そうです。
 肝心の女性メインキャスト群は私にとっては全く未知数。
 糸井重里(大学教授)、細野晴臣レコード屋店長)、高橋幸宏(亜美寮門番)をゲスト出演させるところなんかも何考えてんだか、と言う気がしないでもありません。

  とか何とか言いつつまあ観るんだろうなあ、ということでおさらいがてら久しぶりに読み返してみました。随分記憶違いもあったし、昔読んだ時と違った新しい感動もあり、更にはその後の村上春樹を知っている分だけ深く読めるところもあり、良い読書体験ができたと思います。

 ストーリーを語ることは映画公開直後ですから避けますが、読者或いは映画を見る人が押さえておかないといけないのは時代背景。出版が1987年なのでついついその頃の物語かと思いがちですが、実は1969-70年頃の物語です。若い人には1987年も1970年も同じ遠い昔かもしれませんが、バブルの頃と学園紛争たけなわの頃とでは天と地ほどの差があります。
 まだパソコンなど無く、当然メールではなく手紙がコミュニケーションの中心手段でした。この作品でも手紙が重要な役割を果たしています。通信手段はもちろん携帯ではなく固定電話公衆電話。最後のシーンで主人公が公衆電話の中で自分のいる場所についての見当識を失ってしまうのが印象的ですね。

 という説明は自戒も込めて。あの頃のインフラや社会背景をしっかり押さえた上で読まないと随所に違和感が生じてしまいます。特に冒頭のハンブルグ空港に到着するシーンがその当時の現在(1987年頃)なので今読むと余計にややこしい。実を言うと私はこのプロローグがあまり好きではありませんでした。あまりにもわざとらしすぎるし、あんなに親切過ぎるスチュワーデス(当時の表現)おらんやろう。と、突撃隊じゃなくて突っ込み隊(笑。

 一方で私が好きだったのは短編「」をそのまま移植した部分。その印象は今でも変わりません。彼の文章はやはり本当に上手いし美しい。以前「MURAKAMI」と言う評論本のレビューで、当時は村上龍の方が好きで「ノルウェイの森」の良さに気づいたのは随分後のことだったと書いた覚えがありますが、その当時でも「蛍」は別格的に好きでした。勿論両人とも達人ではありますが、敢えて言うとストーリーテリングで勝負する龍、文章で勝負する春樹というイメージでした。

 「蛍」を長編化したこの小説も一つ一つの文章にその神経が行き届いている事は今回改めて感じました。濃厚すぎるエロティシズムや多くの自死の影に辟易せず読み進められるのはひとえに彼の文章力だと思います。

 もちろん該博な知識に裏打ちされた小道具の数々も彼の真骨頂。ウィットの聞いたチャンドラー張りの会話、ビートルズからビル・エヴァンスマイルス・デイヴィス、そしてモーツァルトバッハまで次から次へと洪水のように溢れ出てくる音楽、適切な場所に収まっている適切な小説。特にトーマス・マンの「魔の山」には今回あらためて唸らされました。

 そのような中でも今回一番驚きを隠せなかったのが直子の手紙です。二人の人間の死を心の中でいまだに整理できないまま精神の均衡を失っていく直子。医療関係者である私でさえ前回はそれと気付くことなく読み飛ばしていましたが、彼女の手紙においてその精神の均衡の崩れかけていく様が非常に巧妙に表現されています。例えばこの文章。直子の病気のことを理解してなければ簡単に読み飛ばしてしまいそうな文章です。

「返事が遅くなってごめんなさい。でも理解してください。文章を書けるようになるまでずいぶん時間がかかったのです。そしてこの手紙ももう十回も書きなおしています。文章を書くことは私にとってとても辛いことなのです。」

 主人公をよすがとしてこの世界にすがり続けようとする直子の苦しみ、哀しみが痛いほど伝わってきます。特に精神疾患に詳しいはずもない彼が、どうしてこの様な微妙な表現で直子の病状を示唆させるような文章を書き上げる事ができたのか。文章のこなれ具合自体は今の「1Q84」などの方が進歩していると感じますが、文章に対する感受性の鋭さはこの頃からもう十二分に発揮されていると申し上げていいでしょう。

 というわけで個人的には徹底的に直子にこだわって撮ってほしいのですが、どうもマツケンをめぐる女性たちの物語となるらしいです。村上春樹自身があるインタビューで

「ワタナベという男性の一人称の物語だと思っていたが、実は複数の女性の物語だったのだと気付かされた」

と述べていた、と記憶しています。う~ん、楽しみなような心配なような。。。少なくともその視点で原作を読むと正直なところ大したことのない小説のように思うのですが。