ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

1Q84 BOOK3 / 村上春樹ー王殺しの後日譚と竜殺しと

1Q84 BOOK 3
深い孤独が昼を支配し、大きな猫たちが夜を支配する町。美しい河が流れ、古い橋がかかっている。でもそこは僕らの留まるべき場所じゃない。(
第29章「二度とこの手を放すことはない」より抜粋)

 村上春樹の「1Q84 BOOK1,2」の続編が4月16日に発売されました。早速驚異的な売れ行きであるとマスコミは騒いでいますが、そりゃそうでしょう、続編ですからBOOK1、2があれだけのセールスを記録した以上、3が売れないわけがない。

『1949年にジョージ・オーウェルは、近未来小説としての『1984』を刊行した。そして2009年、『1Q84』は逆の方向から1984年を描いた近過去小説である。そこに描かれているのは「こうであったかもしれない」世界なのだ私たちが。生きている現在が、「そうではなかったかもしれない」世界であるのと、ちょうど同じように。(AMAZON解説より) 』

 まだ読んでおられない方も多いと思いますのでネタバレは可能な限り避けますが、BOOK 3全31章、600P近い大作となっています。そして何より嬉しい事にBOOK2の終わり方のような不自然さは無く、「一応の完結」をみています。一応というのは依然解決されていない問題があるからで、実際AMAZONのレビュー、某コミュ、掲示板などを覗くと「3はなかった方が良かった」「4があるはず」と種々の不満が渦巻いています。村上春樹に対する期待度の裏返しなのでしょうけれどもね。
 とにもかくにも個人的にはこのBOOK3が出た事で、以前「1Q84の魅力/ 湯川豊x小山鉄郎」でいくつか提示した疑問点は一応整合性のあるストーリーの中にその回答が組み込まれ、腑に落ちない点がすとんと落ちた快感はありました。その意味では

王殺しの後日譚」

として小説は完成を見た、と言えますが、依然として置き去りにしてしまった疑問点もやはりありますし、更には新たな謎も提示されています。

 総合的に判断して、前回はこれで終わったのではあまりにも読者に対して失礼だと思いましたが、今回はこれで終わるもよし、BOOK4を書くもよし、というところでしょう。もしあるとしても1Q84ではなく1Q85(それも厳密には正確ではないけれど)になってしまいますが。

 さて、村上春樹を語る場合、内容もさることながら小説としての完成度も検討しなければいけません。まず文章に関してはその緻密さ、リズム感、表現力の豊かさはさすがに村上春樹、他の追随を許さない圧倒的なものがありました。読み始めると止まらず、この週末の殆どの時間をこの小説に費やしてしまうほどでした。

 ストーリー展開もBOOK1、2のような多少のまどろっこさが払拭されています。基本的なプロット構成は主要登場人物の視点が章毎に入れ替わる手法を踏襲していますが、今回はBOOK1、2で細かい設定を全て説明し終わっている事もあり、その展開に無理が無く、澱みなくストーリーが進行していくので安心して読む事ができました。

 ちなみに誰の視点かは天吾以外まだばらすべきではないと思いますが、あと二人います。この三人の距離が徐々に縮まっていき最終地点に向かって収斂していく流れはスムーズでテンポも良く、そしてとてもスリリングでした。読みながら全然関係無い小説ですが、サイバーパンクの嚆矢となったウィリアム・ギブスンの「ニューロマンサー」をちょっと思い出していました。

 描かれている世界はもちろんBOOK1,2の続きで、我々が知っている1984年ではなく1Q84年の世界というパラレルワールド的架空世界ですが、幾つかのSF的或いは幻想小説的設定を除いてほぼ現実世界と変わるところはない。にもかかわらず主人公たちには自分たちの関わっている以外の世間はとても薄っぺらい紙のような非現実的な存在に思えている。これはオウム真理教を信じていた人たちの心象風景に似ているのかもしれません。
 そしてこの小説で実在感をもって描かれる人物たちの間には極めて強い緊張感が張り詰めており、一触即発の状況にあります。その触媒となる鍵を握る人物は

この1Q84年から1984年に逃げ出さなければいけない

と思っており、天吾は無意識にそれに感応している。1Q84年という世界を暗示する極めて興味深い天吾の認識を冒頭に掲げましたが、ここにもう一度再掲してみます。

深い孤独が昼を支配し、大きな猫たちが夜を支配する町。美しい河が流れ、古い橋がかかっている。でもそこは僕らの留まるべき場所じゃない。

 どこか「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の静謐だった世界の方を思わせますね。あれは主人公の内的世界であったわけですが、今回は決してそうではない。オウム真理教事件等を通じて現実世界と向かい合い、「物語の力」により世界を良い方向に変えていこうとする村上春樹の新しい挑戦である、と捉えるべきなのでしょう。

 以上、BOOK1、2を読んでいる方にはある程度前回の消化不良が解消するカタルシスを得られるでしょうし、未読の方には1から一気に3まで読めるというのは羨ましいことですよ、と申し上げておきます。
 最後に前回採点をしましたので、それを修正しておきます。

採点(十点満点、☆2点、★1点)
BOOK1、2の時点
総合点: ☆☆☆☆
技術点: ☆☆☆☆★
構成点: ☆☆☆★
内容 : ☆☆☆★

+BOOK3の時点
総合点: ☆☆☆☆★
技術点: ☆☆☆☆★
構成点: ☆☆☆☆★
内容 : ☆☆☆☆

 (参考: 「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」10 点、「ねじまき鳥クロニクル」7点、「海辺のカフカ」9点程度)

 一応今の段階ではこれだけのレビューでとどめておきたいところですが、一点どうしても気になる事があるので、少し書き足したいと思います。といっても物語の本流のネタばらしではありませんが、未読の方は御注意ください。

 それは「謎のNHK(エネーチケー)集金人」がこの小説にとってどんな意味を持っているのか、です。具体的に言いますと、この集金人は隠れて暮らしている登場人物3人の部屋のドアを執拗にノックし「隠れてないで出てきてお金を払ってください」と大声でがなりたて、NHKへの支払いが国民の義務である事を執拗に説明し、最後には「必ずまた来ます、最後まで逃げおおせる事はできません。」と捨て台詞を吐いて去っていきます。しかし結局3人にそれによる実害は全くない。心理的に嫌な感じを残すだけ。

 この集金人の正体は終盤で明らかになります。その正体は昏睡状態で眠り続ける元NHKの集金人にして天吾の父の幽体です。自ら生きる事を放棄し緩やかに死んでいくことに決めたこの男が何故この嫌がらせのような行為をするのか、逆に言えば

ストーリーの本質には絡まない行為を何故村上春樹が執拗に書き続けた

のか?
 「オッカムの剃刀」的に徹底的に余計な推測を排除して残った事実だけで説明しようとすれば

この男は死ぬまでNHK集金人であることをやめなかった

という単純な事実しか残りませんが、これはあまり意味のない残滓に過ぎない気がします。それだけならここまで執拗に嫌がらせ的に登場させる必要はない。敢えてこれに推論を付け足すとすれば

本当は実子ではない天吾と彼を産んだ母を意識下では憎んでいて、彼にかかわる人物に嫌がらせを続けていた

と言うところでしょうか。天吾が犯人が父であることを直感的に察知し、昏睡状態で眠り続けるその父親に対して静かにやめてくれる様説得し、程なくしてこの父親は息を引き取ります。となると、MAO.Kさんが以前のコメントで

この物語は「王殺し」と「竜殺し」が並存している

と指摘してくださった事が正鵠を得ている、と思わざるを得ません。「竜殺し」に関しては「ユング心理学」をキーワードに調べてくださいとだけ申し上げておきますが、この小説中でおよそ哲学とは縁の無い殺し屋のタマルユングを語らせているのも象徴的です。MAO.Kさんの慧眼に脱帽します。