ゆうけいの月夜のラプソディ

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坂の上の雲(2)「坂の上の雲」と日本人 / 関川夏央

「坂の上の雲」と日本人 (文春文庫)
 前回の記事で比較的中立に明治という時代と「坂の上の雲」を読み解く事ができる本としてお勧めした関川夏央氏の「坂の上の雲」と日本人」です。この本は実は日露戦争100年記念として2006年に刊行されましたが、今回「坂の上の雲」ブームにあやかって文庫化されました。
 関川氏の名前は多くの方が漫画家谷口ジローと共に記憶されていると思います。特に「坂の上の雲」と同じ明治時代を描いた「坊ちゃんの時代」シリーズはこのコンビの代表作で、第2回手塚治虫文化賞を受賞しています。

日露戦争で勇名を馳せた秋山好古・真之兄弟と俳句・短歌の革新者である正岡子規を軸に、明治日本の「青春」を描いた司馬遼太郎の『坂の上の雲』。この雄篇が発表されたのが1968‐72年である点に着目し、そこに込められたメッセージを解き明かす。斬新な視点と平易な語り口で司馬文学の核心に迫る傑作評論。(文庫本裏表紙紹介より) 」

 この本における「坂の上の雲」の内容に関する分析は読者の楽しみの為にとっておきますが、今の時代からは見えにくい明治の姿や、昭和の高度成長時代の執筆当時の世相などの周辺事情がとても興味深いので幾つか紹介してみます。

1: この小説は右寄りの「産経新聞」に1968-72年にかけて連載された。この当時は左翼思想全盛で、悪しきナショナリズム小説として批判され、全く人気も無かった。司馬氏はその当時の左翼的風潮を「日本も軽くなった」と嫌い、敢えて氏独特の反骨精神でこの作品を書き上げた。

 これには目から鱗でした。司馬氏の代表作と言えばまずは「坂の上の雲」、というのが今では当たり前の評価ですからね。その頃私は小学校から中学校に上がったばかりで世評には疎かったですが、確かにあまり話題に登る事も無かったように思います。ちなみに当時「日本海大海戦」(1969年、東宝)という映画を見た事がありますが、加山雄三広瀬武夫は強く印象に残っていますが秋山真之を誰がやっていたかは記憶がありません。調べてみたら土屋嘉男さんでした。と言っても今の人は知らないでしょうね。それくらい端役であったと言う事でしょう。

2: 司馬氏は私小説やナルシスティックな思想が大嫌いであった。万単位の人間を死地に追いやりながらその悲劇性に自己陶酔する乃木が嫌いであったのは彼の性格からして当然と言える。同様な理由でよど号ハイジャック事件の犯人の声明「我々は明日のジョーである」発言に関して「乃木の方がまだ重みがある、この軽さは一体何なのか」と嘆いていた。

 「明日のジョー」発言の軽さは安保世代に少し遅れた私も子供心に感じた事でした。当時の左翼かぶれの人たちに対する違和感には卑近な思い出もあります。私は中高一貫の学校に通っていたのですが、その生徒会委員長選挙で、ある上級生候補者が声を張り上げて大学の安保闘争について語り、日本を改革しなければならないのだと主張しました。その時下級生の誰かが多分にからかい混じりに

「それがこの学校の生徒会の選挙と何の関係があるんですか?」

と質問したのに、候補演説していた人は怒気を含みながらもしどろもどろになっていました。その時に肌感覚で感じたのは、当時の左翼的な人は自己陶酔型であるという事でした。同様な思いを司馬先生はもっと高いレベルで感じておられたわけですね。

3: 日露戦争ビタミン戦争でもあった。日本軍は脚気(白米によるビタミンB1不足)に苦しみ、ロシア軍は壊血病(ビタミンC不足)に苦しんだ。海軍は一早く玄米、麦食を取り入れて脚気を根絶したが、陸軍は頑として受け入れず感染症と考えていた。その急先鋒が他ならぬ森林太郎(鴎外)であった。一方のロシアは、大豆をモヤシにさえしていれば壊血病は解決していた。

 これに関してTVドラマの第一部で本来出てこないはずの森林太郎(鴎外)日清戦争に登場させて「戦死者の多くは病気で斃れている」と嘆かせているのを覚えておられる方も多いと思います。ところがその一番の犯人が彼自身なのですから、この脚本、おかしくありませんか(苦笑?

 司馬先生の原作では戦闘に関する解析から如何に薄氷を踏むような思いの勝利であったかが語られていますが、こういう面からも如何に日露戦争紙一重で勝敗を決したのかが分かります。

4: 日露戦争は最後の石炭による戦争であった。石油によるエンジンが当時あればバルチック艦隊の辛酸は無かったかもしれない。繰り返しになりますが、こういう面からも如何に日露戦争紙一重で勝敗を決したのかが分かります。

5: このように紙一重であった勝利の大きな要因として、実際には情報戦・広報戦に勝った事が大きかった。これに関しては原作でもかなりの頁を割いておられますから詳細は述べませんが、もうその当時アメリカではイエローペーパー(二流の扇動紙)が世論を左右しており、その代表がハースト系ピュリッツァー系であったと言うのは面白いですね。ピュリッツァー賞で名高いピュリッツァーも当時はイエローペーパーだったんですね。

等々です。

 ところで前回の記事で「現代史を教育の必須科目とすべきである」と述べましたが、この本で関川氏は、司馬氏の膨大な著作をもとに、明治維新から日露戦争までの時代と、第二次世界大戦敗戦後からバブルの時代は良く似ていると解説されています。

1: 先ず政権が一旦瓦解し、そこから新しい国作りに立ち上がる世代

 明治で言うと維新の政治家たち、昭和では戦後処理から吉田茂サンフランシスコ講和条約あたりでしょうか。

2: 1の時代を礎にして外国列強と競う国力を作っていく世代

 明治で言うと丁度「坂の上の雲」のTVドラマ第一部のあたりですね。明るい明治の印象の強い時代です。司馬氏はその代表として正岡子規を中心に据えましたが、本当は夏目漱石のファンだったそうです。漱石はそのような時代の暗黒面を覗いていた人だったので相応しくないと考えたのであろう、と関川氏は推量しています。

 昭和で言うと当然高度成長期に当たります。昨今の昭和ブームで懐古する昭和が、例えば映画「ALWAYS 三丁目の夕日」のように妙に明るすぎる事と、漱石の見た近代の暗さを敢えて省いて書いた「坂の上の雲」の序盤の明るさとは、確かに何か相通じるものがあるように思いますね。

3: その頂点に対外的な勝利があり国民が熱狂する。

 これが明治では日露戦争であり、戦後では空前のバブル景気時代であるわけです。熱狂の裏では冷静に事態を分析する人たちがいたはずなのですが、無反省な暴走の歯止めは効きませんでした。

 如何に歴史に学ぶ事が大事であり、かつ難しいかが分かると思います。

 2回に渡ってこんな生硬な記事を読んでいただいてありがとうございました。最後に私よりはるかに優れた解説を書いておられる内田樹氏のこの文章を引用しておきます。

 『「坂の上の雲」を「健全な」ナショナリズム賛歌のようなものとみなして、それを高く評価する人も、それゆえ批判する人もいまだに多い。けれども、この作品に伏流しているものがその「健全さ」がどれほどたやすく失われるかについての不安であることを、日本人そのものについての不安であることを見抜いた人は少ない。
 関川さんはその数少ない一人である。 (内田樹)』