ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

高村薫インタビュー

Takamurainterview
 20世紀を貫いて現在に至る壮大なサーガ三部作の完結編「太陽を曳く馬」を上梓された高村薫女史のインタビューが8月9日の神戸新聞に載っていました。私も現在本作と格闘中ですので、この記事を興味深く読みました。以下、小説の具体的な内容には極力触れない範囲内でまとめてみます。聞き手は神戸新聞文化生活部の平松正子氏で、下記文章中の「」内が高村女史の言葉です。

「百年先が見えない。いや、五十年先すら危うい。よもやこんな時代が待っていたとは」

 三部作の完結編はまさに21世紀の現在が舞台ですが、怒りや焦燥、違和感といった「今」の時代感覚が全編に溢れています。そして今回は高村ファン待望の刑事合田雄一郎が登場します。
 前作の「新リア王」が昭和政治及び仏教哲学と真っ向から向かい合い極めて難解であった事は以前のレビューで述べましたが、今回は合田刑事が難解な現代美術仏教哲学を語る上での緩衝材となり、更には犯罪や裁判の語り部となることにより、前作に比してはるかに読みやすくなっています。もちろん合田も悩み、迷い、問い続けるわけですが、

「殺人にしろ宗教にしろ、当事者だけでは普通の言葉が通じない。私たちを代表して観察する者、すなわち絶対的第三者の視点が必要だった。しかし一般の人間が事件を眺めても、実のところ何も見えはしない。だから絶えず言葉を発し、自他と対話するのです。」

と高村女史は合田の役割を説明します。私が太線にしたところは裁判員制度についての彼女の見識かもしれませんね。

 さて、今回は死刑囚である秋道(しゅうどう、三部作の主人公福澤彰之の息子)が精神に問題を抱えた現代美術画家であるという設定を設けて、現代美術、更には視覚脳生理学にまで深く切り込んでいます。脳生理学は僭越ながら私の専門分野の一部でもあるのですが、その踏み込み方は明らかに凡百の医療小説をはるかに凌駕していると断言できます。

「20世紀以降、画家たちは目に見える形を崩すことで自由を求めた。秋道もまた、描くことでのみ、世界と相対している。多くの人にとって訳の分からない現代美術だけれど、それを眺めることで、言葉に替わる世界への向き合い方が開けてくるんじゃないか」

 まだ読了はしていませんが、色が単一で視界の全てを覆ってしまうくらいの広さになると、それは光になる、という記述に深く心を動かされました。ちなみに草間彌生の名前が何度か出てきますので、彼女のお好みなのかな、と思います。

 さて、前作に引き続き宗教についても語られ、新たな事件とも深く関わっていきます。ここでは詳細は語りませんが、その方向と覗きこむ深淵は村上春樹とは明らかに別のベクトルを有している、とだけ申し上げておきます。

抽象絵画と同じく宗教、特に仏教も、世界への向き合い方を示すもの。一切は空であり、言葉による意味付けを超越している点も共通する。だが画家であれ、宗教家であれ、やはり人間の言葉で考え、問い、答え続けるしかない。そんな矛盾をはらんだ言語運動のなかに、もちろん作家もいるわけです」

 一体これだけの覚悟で小説を書き続けている作家が何人いるのか、と思うと彼女の今後の更なる活躍を期待せずにいられません。ただ、

「今度は真逆のものを書きたい。思い切り”地べた”の話をね」「恐ろしく形而上的な事を考えた直後、同じ頭で真剣にくだらないことを考える。それが人間ですから」

だそうです。この三部作の難解さに辟易して彼女から遠ざかってしまった方も、是非次の機会に帰ってきてください。とりあえず私はまた「太陽を曳く馬」に没頭する事にします。