ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

1Q84の魅力/ 湯川豊x小山鉄郎

1q84critics
 村上春樹の「1Q84」については一度雑感を書きましたが、もう雑誌・ネット上ではプロ・アマを問わず評論のオン・パレードで「狂騒状態」といっても過言ではないでしょう。私もほとぼりの冷めたころ、すなわちもうネタバレの文章が許される頃にもう一度書こうと思っていたのですが、ここまで百花繚乱となると到底一人で裁ききれるものではないなあ、とあきらめかけていました。
 そんな折り、神戸新聞の7月9日、10日、11日の三日間に渡って「1Q84の魅力」と題して春樹氏と親交のある文芸評論家の湯川豊氏と、以前「物語の力」でも紹介したことのある、春樹氏を繰り返し取材しておられる共同通信小山鉄郎編集委員の対談が掲載されました。同意できるところもあればできないところもありますが、要領良くこの複雑な小説の骨格と背景を浮かび上がらせている対談ですのでその要旨をまとめてみました。

(上)湯川:支配することの悪を描く、小山:見かけにだまされない
1q84critics2 ・200万部の売り上げは凄い、話題性だけでなく口コミで面白さが伝わっている。
・普通に読めば青豆がリーダーを殺害する前の二人の長い対話がヤマだと思うが(小山)、計三章に渡るにもかかわらず殆ど論じられていない(湯川)。
文化人類学フレーザーの「金枝篇」の「殺される古代の王」をどう読むか(湯川)、青豆は「あなたは王なのか」と問うが、「王ではない、声を聴くものになったのだ」と答える。王は人々の代表として声を聴くもので、統治することは神の声を聴くことと同じことだとリーダーは言う(小山)。
・このリーダーは一見麻原彰晃を思わせるが、むしろ映画「地獄の黙示録」のカーツ大佐に似ている。彼は王国を作って住民を支配し「金枝篇」を読みながら誰かが殺しに来るのを待っている(湯川)。この映画を村上春樹氏は好きである。第一章の題は「見かけにだまされないように」となっているから、人物の設定が見かけ通りなのかいろいろ重層的に考える必要がある(小山)。
・このリーダーは人と言うより一個の闇=悪。そして能弁である。村上氏が「発言する闇や悪」を書いたのは初めてではないか。(湯川)
・結論として、村上氏は殺される古代の王を通して人を支配することの悪を描いた。聖性による支配の怖さである。(湯川)
リトル・ピープルは「小さな人たち」すなわち「倭人」=日本人のことではないかと思う。(小山)
・目に見えない存在とも書かれているので卑弥呼の時代にまで遡るわれわれの遺伝子や血脈的なものと考える。(湯川)
ふかえり古事記に出てくる「そとおり(衣通)」姫のことではないか、二人とも失踪する美女で、美しさが衣を通して輝く。そして彼女が平家物語の壇ノ浦の合戦を暗唱する場面があるが、これは安徳天皇が入水するところ、すなわち古代の王の死の場面。(小山)

(中)湯川:閉鎖社会に対する恐怖、小山:原理主義に抗する意思
1q84critics5 ・「海辺のカフカ」刊行時にインタビューした際、村上氏は「閉鎖社会になることの恐怖」を強調し、どんなことがあっても自分はオープンな社会の側に立ちたいと語っていた。(湯川)
・本書がタイトルに引用したジョージ・オーウェルの「1984年」は1949年に想定されたスターリニズムを背景とした閉鎖社会、管理社会の恐怖である。そして今閉鎖社会への恐怖を書くとするとこの題名にならざるを得ないのではないかと思う。(湯川)
イスラエル賞受賞時、様々な批判のある中で彼は一つだけの価値観だけから「そこに行くな」と言われると行ってみたくなるのが小説家だと話していた。受賞スピーチにおいても原理主義に身を預けず、考え迷い傷つく人間の側にいること、その上でいかに自立した存在でいられるかが大切である、と語った。(小山)
1Q84の世界は現実の時間から少しずれて二つの月が出ている。一つだけの月ではない世界に原理主義に抗する意思もこめられているようにも読める。(小山)
1Q84を読みながら不思議に日中戦争の事を考えていた、「ねじまき鳥クロニクル」と同じく奇妙な形で入り込んでしまった近代日本の行き詰りのような世界。(湯川)
・DVというのも閉鎖的世界で起きることだ。(湯川)
・執筆中の村上氏を取材した時にオウム真理教地下鉄サリン事件実行犯に関して「何であの人たちはあっちへ行ってしまったのか。そのことをちゃんと解明しておかなくてはいけない」と語っていた。一方同事件の被害者である普通の日本人たちからは、とても信頼できるボイスを聞いたとも語っていた。(小山)
・閉鎖的で濃密な世界の中で流れに抗さず従ってしまった日本人、その一方でとても信頼できる普通の日本人。その両面を見ることであくまでオープンな社会をよしとする村上さんらしい思考がこの「1Q84」にはある。(湯川)

(下)湯川:物語に託す強い希望、小山:動く中で方向性を示す
1q84critics3 ・二つの月が見えているのは青豆天吾ふかえりである(湯川)。新しい小ぶりの月が緑色なのは青豆グリーンピース)が20年間思い続けているうちにグリーンピース色になってしまったということだろう(小山)。ずいぶん変わった愛の形である(湯川)。
・日本人はあなた任せで信念も無く時の流れの中で変わってしまいがち(小山)だがそれと反対の「時による風化を簡単には許さないという決然とした思い」を抱く青豆には二つの月が見える。そのような反リトル・ピープル的な人の代表がふかえりである。(湯川)
ふかえりは物語を語る人、リトル・ピープルというのはわれわれの中にある血脈、DNA的なもの。ふかえりが反リトル・ピープル的だとすると物語には血脈的な集団性に対抗できる力があるということ。(湯川)
天吾ふかえりの語った物語をリライトするうちに積極的な人間に転換され月が二つ見えるようになった(小山)、ここに村上氏が物語に託す非常に強い希望があらわれていると思う(湯川)。
・今世界は混迷の中にあり再編成されなくてはならないのは明白であるがそのためには自分のいる場所から動いていかなくてはならない。でも混沌とした闇の中を動いて行くのは恐怖である。その恐怖に対抗するのが物語、物語は動いていくもので、その中であるまとまりと方向性を指し示す(小山)。
天吾と父の和解の場面は奇妙でありながら感動的である(湯川)。天吾は「自分と父は血のつながりがないなら、父を愛せる」と思う、そして青豆ふかえりも、みな親との関係を断って生きる(小山)、つまり一人で生き、一人で死ぬ覚悟みたいなものを持つ人たちが反リトル・ピープルである(湯川)。
・父親と和解した後で天吾が「温かい日本茶」を飲む場面がすごくいい。本当に美味しそうな日本茶である。(小山)
・「空気さなぎ」は天吾がリライトした小説で、その内容は最後に青豆が読むというかたちで明らかにされる。小説内小説が強い光源となって、もう一度全編を照らし出す(湯川)。まさに「物語の力」を実感するところである。(小山)
・長い長い物語の最後に、空気さなぎに包まれた青豆天吾の前に現れる。この小説の一番美しい場面だと思う。(湯川)

 見かけにだまされず重層的に読まなければならないと語っておられるように、村上春樹を知り尽くした二人は重層のうちの深層を中心に語っておられるように思います。
 ですから浅層の部分は敢えてさらりとしか触れなかったのだと思いますが、浅層には浅層の語られれるべき論点は沢山あると思います。それは例えばオウム真理教日本赤軍ヤマギシ会といった団体組織であり、DV(domestic violence)、フリー・セックスといった風潮であり、更には文壇・出版界という世界でしょう。
 特に、この本を読む日本人で、リーダーと呼ばれる人物に麻原彰晃を思い浮かべない人はまずいない、その上で確信的にリーダーに神秘性、超能力を付与した事に関してだけは個人的には未だ納得できていません。それに関して「殺される古代の王」を持ち出して論じても隔靴掻痒の感は否めないというのが正直な感想です。
 そしてリトル・ピープルに関してはいささか牽強付会な気もします。まずは村上氏の短編「TVピープル」との類似性について語るべきだったと思います。

 もう一つ言わせていただくと、今一番読者を悩ませている「続編があるのか」という問題に言及しておられない。というか、完結していると言う前提で対談しておられるような気がします。
 例えば空気さなぎに包まれた青豆が現れるシーンを美しいと感じるのはこの小説がこれで完結していると考えていればこそではないでしょうか。この空気さなぎを産み出してしまったのは明らかに天吾であり、そうすると彼はリーダーにとってかわる存在にならなければならず、その後の物語があるとすればその中で天吾には恐ろしい厄災が降りかかってくると考えられるからです。ですからたとえ産まれてきた青豆自体がどんなに美しくても、あのシーンはおぞましいシーンであると、私は感じました。

 もちろん時間の制限、紙数の制限もあって枝葉末節まで語れない事は明らかであり、その制限の中で良くまとめられている記事だったと思います。自身を含めて、読後に考えをまだまとめきれていない方の参考になれば幸いです。