ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

改正臓器移植法成立に思う

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中山太郎議員)
 7月13日、改正臓器移植法衆院案=A案)参院本会議で可決成立しました。まずは長い間放置されていた臓器移植法の改正に尽力された舛添厚生労働大臣中山太郎議員を初めとする関係者各位のご苦労をねぎらいたいと思います。お疲れ様でした。そして厚労省はこれからの一年間、法体系の整備が本当に大変だと思いますが頑張ってください。さて、今回のA案では次の3点が大きな改正点となりました。

1: 脳死を一般に人の死と認めた
2: 臓器提供の年齢制限を撤廃した
3: 本人の生前の意思提示を必要としなくなった(もちろん拒否権はあり)

 一般には2、3に関連して、子供の臓器提供が可能になった事が賛否両論含めて注目されていますが、個人的には1の持つインパクトの方がはるかに大きかったです。人の死を法律が明確に定義してしまったのは、近代法治国家となった明治以来初めての驚天動地の出来事なのです。ちなみに最初の臓器移植法では「臓器移植を前提とする場合に限り脳死を人の死とする」との限定的な定義でした。まさにこれがセカンド・インパクなんでしょうね(苦笑。

 あの頃に比べるとマスコミは随分おとなしくて論調も多分に情緒的な気がします。それに比すれば、生命倫理会議の緊急声明はきわめて論理的にA案に関しての疑義を提起しています。その骨子を記載してみますが、詳細はリンク先をご覧下さい。

生命倫理会議 参議院A案可決・成立に対する緊急声明

1)厳密な脳死判定後にも長期脳死の実例がある、という事実が直視されなかった。
2)ドナーとなる子供への虐待の有無を判別する難しさが認識されなかった。
3)「脳死=人の死」であるとは科学的に立証できていない、という最も重大な事実が省みられなかった。
4) WHOの新指針の内容を十分に確認せずに、事実に基づいた議論がなされなかった。
5)ドナーを増やすことが国民全体への責務に反することにはならないか、熟慮されなかった。
6)移植に代わる医療の存在が患者・国民に周知され、また国によって援助されるべきである。
7)現行「臓器移植法」に定められた法改定条件が遵守されなかった。

 論点は明確で正鵠を得ており、個人的には4)に関しては異議がありますが、他は論理的には正しいと考えます。しかし、だからと言ってこの法案成立を敢えて非難する気にもならないところに臟噐移植という医療の是非を問うことの難しさがあると思います。

 本ブログでは今まではこの問題を避けてきましたが、ドナーを送り出す立場で働いている一員として、この改正案成立を機に一応の私見は述べておこうかと思います。

 先ず、個人的な心情として昔から私は脳死臟噐移植という行為には反対です。しかし、脳死臟噐移植という医療がこの世に存在する以上、法案整備の上で行われる事には異議は唱えませんし、むしろ他国任せにする事の方が問題だと思っています。

 先の臓器改正法が論議されていた時点での私の考えは下記の通りで、大筋では今も変わっていません。

1: 「脳死=人の死」であるという科学的根拠は脆弱である
2: しかし現実には、提案された脳死判定の定義を満たした場合回復はまずあり得ない
3: 「臓器移植を前提とする場合に限って」などと留保付きで人の死を定義する事は、医学・哲学・宗教学等様々な倫理的観点から見て人間の尊厳を愚弄している
4: 鎖国社会ではないにもかかわらず、日本だけが脳死臓器移植を認めないのは国際社会の一員としての責務を果たしていない

 ですから臓器移植法が成立した時点で3に関しては大きな不満が残りました。今回出された法案でもA案以外はまだ留保付きで人の死を定義していて、とても支持する気になれませんでした。ですから留保を取り除いたという一点だけで私はA案を評価します。

 問題は留保の取り払い方が私の考え方とは全く逆で「脳死が一般に人の死である」と定義した事。これに関しては生命倫理会議の主張が正しいと私も思います。しかし何の留保も無く脳死は人の死ではない」と定義すれば

「まだ生きている脳死状態の患者」からの臓器移植を認める

という法案を出すしかありませんが、これが法的に認められるでしょうか。おそらく無理です。

 以上無理な事を無理と知りつつやらざるを得ないのが臓器移植なのだ、というのが私の認識です。送り出す側からすれば断腸の思いだけれども、法には従います。レシピエント側の方々は「使い物になる臓器」を頂く事が何を意味しているのかを厳粛に受け止めて欲しいと思います。