ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

夜想曲集 / カズオ・イシグロ(土屋政雄訳)

夜想曲集:音楽と夕暮れをめぐる五つの物語
 日本生まれの英国作家カズオ・イシグロの作品については以前「私を離さないで」を紹介したことがありますが、彼の4年振りの最新刊「Nocturnes:Five Stories of Music and Nightfall」の訳本が出ました。邦題「夜想曲集:音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」から推察できるように彼自身初の短編集であり、今回も土屋政雄氏が訳を担当されておられます。

1:Crooner ; 老歌手
2:Come Rain Or Come Shine; 降っても晴れても
3:Malvern Hills; モールバンヒル
4:Nocturne; 夜想曲
5:Cellists;  チェリスト

ベネチアサンマルコ広場を舞台に、流しのギタリストとアメリカのベテラン大物シンガーの奇妙な邂逅(かいこう)を描いた「老歌手」。芽の出ない天才中年サックス奏者が、図らずも一流ホテルの秘密階でセレブリティと共に過ごした数夜の顛末(てんまつ)をユーモラスに回想する「夜想曲」を含む、書き下ろしの連作五篇を収録。人生の黄昏を、愛の終わりを、若き日の野心を、才能の神秘を、叶えられなかった夢を描く、著者初の短篇集。』

 土屋政雄氏があとがきに書いておられますが、欧米では短編集のマーケットは長編に比べて極めて小さいそうです。だから損得勘定でいけば短編集を出すことは作家にとっては損になるのですが、長編を書くたびに1年半から2年も海外にプロモーションに出かけ、無数のインタビューに答えるという生活に疲れ果てていたこともあり、カズオ・イシグロは敢えて短編集を書こうと決めていたそうです。

 そしてそのコンセプトとして、全体を5楽章からなる一つの曲、或いは五曲入った一つのアルバムとして読んでもらえるような短編集を作り上げたのがこの本だということです。
 5楽章と言うと先日レビューしたマーラー7番「夜の歌」を思いだしますが、この本も

1、5: 旧共産圏から出てきた音楽家アメリカ流の恋愛に戸惑う話
2、4 ドタバタ喜劇
: 著者の自伝的要素のある他の4編と趣きを異にしている話

と、ABCBAの緻密に計算された構成となっています。おまけに第4話が本の題名になってますし、本当に不思議な因縁を感じましたね(笑。ちなみに楽器としてはギター、サックス、チェロなどが登場し、若い頃ミュージシャンを目指していたと言うだけあって本当に音が聞こえて来そうなほど活き活きと描写されています。

 英国育ちの著者ですが、若い頃の好みは結構渋くてアメリカの古いスタンダード、特にブロードウェイ・ソングがお気に入りだったようです。当然ながらその時代の英国のキャンパスにあっては異端だったようで、スタンダードの名曲を題名にした「降っても晴れても」の冒頭にこんな一節があります。

僕らの世代は(中略)、学生は大きく二つに分類できた。引きずるような衣に長髪のヒッピータイプはプログレッシブ・ロックを聞き、きちんとツイードを着るタイプはクラシック一辺倒で、ほかのすべてを騒音とみなしていた。たまにジャズを好きと言う学生もいたが、これはほとんどがクロスオーバージャズのことだ。(中略)サラ・ボーンチェット・ベイカーがエミリの好み、ジュリー・ロンドンペギー・リーがぼくの好み。ともに、シナトラエラ・フィッツジェラルドはちょっと苦手だった。

とまあこのように古いスタンダードをはじめ、クラシックからジプシー音楽、映画音楽等様々な音楽のエッセンスが随所に織り込まれた五編の小説は音楽好きの方にはたまらない小説となっています。音楽好きにはたまらないと言えば村上春樹氏もそうですが、この小説には1Q84より一足早くヤナーチェクも名前だけ登場しています(笑。

 さて、前置きが長くなってしまいましたが、折角ですのでペイパーバックと本書を一話ずつ交互に読みながら、先日読了しました。
 どの作品でも男女間の危機がテーマとなっており、音楽と並ぶテーマである「夕暮れ」を感じさせます。その語り口は著者が最も影響を受けたと公言しているチェーホフを髣髴とさせ、人生の一場面をさりげなく、しかも巧妙に切り取って描いています。
 惜しむらくは第一話「老歌手」の出来栄えがあまりにも良すぎて、第二、三、四話がやや霞んでしまっている印象を受けます。第四話に第一話の主人公の一人を登場させる必要があり、順番は替えられなかったのだと思いますが、これをトリに持ってきたほうが素晴らしい余韻が残ったのではないでしょうか。
 一方トリの「チェリスト」も不思議な味わいのある佳作です。実は英語で読んでいてもあまりぴんとこなかったのですが、不思議なことに邦訳で読むと深い余韻を感じました。まあ、英語を読みきれていないだけなんですが(苦笑。

 さて、読みきれていない事を承知でカズオ・イシグロの文体について感じたことを述べますと、

随分贅肉をそぎ落とした淡々とした文章を書かれるんだな

と驚きました。日本語と英語を交互に読んでいくと、まるで徹底的にブラッシュアップした英作文の模範解答を読んでいるような錯覚に襲われます。スラングや四文字はもちろん、余計な修飾語や成句、英語独特の言い回しなどはストイックなほど避けています。敢えて挙げるとするなら、

”If she finds out, she'll want to saw your ball's off."
「エミリが知ったら、おまえは金玉鋸挽きの刑だ」

くらいでしょうか。これだって名文家で知られ、「日の名残り」の邦訳で我がはむちぃ君の言葉遣いにも多大な影響を与えた土屋政雄氏の珍しい暴投と言えなくもありませんが(笑。

 閑話休題そのあたり日本が出自である事も関係しているんだろうかと思いましたが、実はそうではなく、土屋政雄氏曰く「インタビュー症候群」なのだそうです。

外国の識者によるインタビューを幾度となく受けているうちに、自分の作品が翻訳でどう読まれているか意識せざるをえなくなった、というのである。(中略)つまり、何を書く時もそれがどう翻訳されるかが気になってしかたがない。一例をあげれば、英語でしか通用しない洒落や語呂合わせなどは、翻訳では消えてしまうから極力避けるようになった。(土屋氏あとがきより)

なるほど、カズオ・イシグロほどになればそこまで考えないといけないのかと思う反面、土屋氏が述べておられるように「翻訳のことは翻訳者に任せ」て自由に書いてほしいとも思います。
 まあなにはともあれ、磨きぬかれた美しい文章を随所で読めるのは嬉しいことです。他にもいろいろと語りたい事もあるのですが、思わぬ長文となってきたこともあり、音楽に関係する美しいと思った文章を二つ挙げて終わる事にします。この文章がどういうところで出てくるのか、そしてどう土屋氏が訳されているのか、興味が湧いた方は是非読んでみてください。

This was Sarah Vaughan's 1954 version of 'April in Paris', with Clifford Brown on trumpet. So I knew it was a long track, at least eight minutes. I felt pleased about that, because I knew after the song ended, we wouldn't dance any more, but go in and eat the casserole.
(Come Rain Or Come Shine)

'But you play that passage* like it's the memory of love. You're so young, and yet you know desertion, abandonment. That's why you play that third movement the way you do. Most cellists, they play it with joy. But for you, it's not about joy, it's about the memory of a joyful time that's gone for ever.'
*: Rachmaninov
(Cellists)