ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

Man In The Dark / Paul Auster

Man in the Dark
 またまた懲りもせずにポール・オースターです。今回は彼の最新作『Man In The Dark』をレビューしたいと思います。前回「The Brooklyn Follies」のレビューの際に、はむちぃ君から「村上春樹の新刊1Q84が来るまでには読み終えられないでしょう」と予言されてしまいましたが、悲しい事に現実となってしまいました(苦笑。
 実は9割がた読み終わってはいたんですが、とりあえず1Q84を先に読んでしまい、やっと先日読了しました。結果的にはラストの種明かしだけを残しておいた形になったので結構な衝撃を受けました。

 先日村上春樹の「1Q84」の雑感の中で、この二人の日米双方のベストセラー作家の最新作の設定がよく似ている点が興味深いと書きました。具体的に言うと、どちらもパラレルワールドというテンプレートの中で架空のアメリカ、日本を描き、それにより現代社会の病根を痛烈に告発しています。方や日本の村上春樹はフィクションとしては初めてオウム真理教事件と正面から向き合い、方やアメリカのPaul Austerは前作The Brooklyn Folliesに引き続きブッシュ政権の失政と9.11事件とに再び向き合っています。

 「各地で紛争が絶えない世界の多くの現実をテーマにした優れた衝撃的な小説」とAmazonの解説にはありますが、確かに本書を読むとブッシュ時代の暴力に満ちた世界情勢が彼の心に与えた深い傷がこちらの心にも痛いほど沁みてきます。それはとりもなおさず(日本人にオウム事件が与えた衝撃と同様に)アメリカ国民の多くが負っている心の傷なのでしょう。先ずは本書の梗概をペイパーバックの紹介文を参考にまとめてみましょう。

『 72歳の書評家August Brillはヴァーモント州にある娘Miriamの家で、自動車事故で負った怪我から回復しつつある。不眠症にも陥っている彼は、忘れたい記憶を頭から追い出すために、眠れぬ夜に物語を夢想している。その記憶とは最近の妻Soniaの死、そして孫娘Katyaの恋人Titusの死だ。Katyaも同様に心の傷が癒えず、Brillと一緒にひたすら過去の名画を観続けている毎日だ。

 さてその夢想の中でBrillパラレルワールドを構築し、ニューヨークに住んでいるしがない一マジシャンOwen Brickをその世界に送り込む。そのもう一つの世界ではイラク戦争は起っておらず、世界貿易センターも倒壊していない。しかし、2000年の大統領選挙の結果(フロリダ州で不可解な集計があった、The Brooklyn Follies参照)によってアメリカ合衆国では国家の分裂が起こり、州が次々に連邦から脱退して血なまぐさい内戦が勃発している。殆どの都市は荒廃し物資も極端に不足している。Brickはこのパラレルワールドで悲慘な経験をした後に、ある使命を受けてこの世界に戻ってくる。内戦を終わらせる唯一の方法である彼の使命とは、見も知らぬ書評家August Brillなる人物を暗殺することだった。。。

 夜も更けていくうちにBrillの物語は次第に強烈なものになり、必死に避けている思いはかえって語られたがっているかのように消えてくれない。Brillは明け方にやってきた孫娘Katyaに徐々に心を開き、自分の恋愛、結婚生活、その破綻の理由などについてKatyaに語り続ける。Katyaが満足して寝入った後、彼はついに勇気を奮ってTitusの死にまつわる心に受けた深い傷と向き合う。』

Titusmonk_2
(Portrait of his son Titus, dressed as a monk, 1660, by Rembrandt)
 最初の簡潔な状況説明でTitusが亡くなった事実は早くも提示されています。そしてこのような文章により、彼がこの物語のキーパーソンであろうとおおよその見当はつきます。

His parents named him after Rembrandt's son, (中略), the little boy who turned into a young man ravaged by illness and who died in his twenties, just as Katya's Titus did. It's a doomed name, a name should be banned from circulation forever.

 Titusとは呪われた名前だと言う語り口が只ならぬ気配を感じさせます。ちなみにレンブラントの息子のタイタスの肖像は上記の絵が最も有名でしょう。実は私、この絵を見た事があります。2005年の「アムステルダム美術館展」に来ていました。マーラーのレビューで何度も出てきた明暗法を駆使した傑作で、レンブラント自身の肖像画とともにとても惹かれましたが、そう言われるとタイタスは色白で生気が無かったですね。

 さてそのTitusの死の真相は最終章に至るまで出て来ません。そしてその真相は冒頭に書いたように極めて衝撃的です。なおかつ現実に起きている事件を下敷きにしている事にあらためて戦慄を覚えます。この数ページの為に180ページを費やしたオースターの執念にも畏怖の念を覚えますが(苦笑。

 さてその真相を解く鍵がパラレルワールドの設定にある、と気がつくのはようやくこの最終時点に至ってからで、それまではパラレルワールドの物語が途中でフィルムが切れてしまうように唐突に終わってしまった事にずっと戸惑っていました。

 Brillが何故イラク戦争9.11事件も起こらない、より良い世界であるはずのもう一つの世界を現実世界よりはるかに悲惨な世界であると夢想したかったのか、そして自らを暗殺して欲しいと望むような自己破壊願望を抱いていたのか?
 日本語訳が出るまでまだ数年はかかるだろうという時期ですからネタバレは控えます。とりあえず、「その心情は察して余りある」という常套句だけ申し上げておきましょう。

 もちろんオースター作品の持ち味である薀蓄話も随所に散りばめられています。といっても今回はやや控えめですが。その中でもBrillKatyaが熱中している映画批評がとても面白かったです。ルノアールの「大いなる幻影」、デ・シーカの「自転車泥棒」、小津の「東京物語」、サタジット・レイの「大地の歌」などを例に取り、名作と呼べる映画では

ある「物体」を提示して登場人物の心情・運命や時代背景を暗示させる事により無駄な説明を省き深い余韻を残す

手法がとられている、という二人の討論はとても面白かったです。今後のゆうはむ映画レビューの参考にもなりました(笑。

 今回村上春樹の1Q84が(続編の可能性を示唆してはおられますが)若干消化不良の感があったのに比して、オースターの方はいつもの饒舌が少し影を潜め、スリムでスピーディな語り口となった事でより完成度を上げていると思います。より悲惨な世界を思い描かずには心の傷の痛みに耐えられない現実世界の酷さと、それを克服していこうとする家族の再生の物語は数多いオースター作品の中でもとりわけ深い余韻を残します。オースターファンは勿論、多くの方に読んでいただきたい作品だと思います。英語もそれほど難しくありませんので、日本語訳が出るまでと言わずに是非お読みください。