ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

マリス博士の奇想天外な人生 / キャリー・マリス(福岡伸一訳)

マリス博士の奇想天外な人生 (ハヤカワ文庫 NF)
 知らない方はこの写真のサーフボードを抱えたおっさんが分子生物学に革命をもたらしてノーベル賞を受賞したなんて信じられないでしょうね。
 新型インフルエンザ関連ネタはそろそろ打ち止めにしようと思っていたのですが、実は某所でPCR法について書いたところ意外に反響が大きかったので、こちらでも「転写増幅」(笑)してPCR法の思い出なぞ書いてみようかと思った次第です。

 さて、最近の新型インフルエンザ関連のニュースで今や新聞で目にしない日は無い、と言って過言では無い「PCR」という検査方法ですが、これが何の略か、どんな検査方法か、ご存知の方はそう多くないのではないでしょううか。

 正式名称はPolymerase Chain Reaction(ポリメラーゼ連鎖反応)と言います。ある特定のDNA断片があればそれを短時間で大量に増幅できるという、分子生物学者にとっては夢のような方法なのです。この方法が開発されたことにより、欲しいDNA断片を大量に増幅したり、微量の検体から簡単に目的とするDNAを検出したりする事が可能となり、分子生物学界に革命をもたらしたと言っても過言ではありません。
 ですから私などニュースで

確定するまでに数時間待たされる

とか言う記事を見る度に、

 「をいをい、こんな短時間で、あるか無いか分からんような検体から恐ろしいほど正確に診断できるなんて昔は夢物語だったんざますわよ、何贅沢ぬかしてけつかるんでございます?」

と、末成由美風に怒りを爆発させている次第です(笑。

(なお、インフルエンザウィルスの遺伝子はRNAですので、実際にはreal time RT PCR法が用いられています。この場合一旦DNAに逆転写してから増幅するのですが、それを話し出すとややこしくなるので今回は割愛します。)

 さて、この方法が開発されたのは1980年代後半で、丁度私が研究室にいた時代でした。この関連のペーパーを目にして、およそ研究者と呼ばれる人は皆が皆大変興奮していたことを思いだします。特に脳裏に焼きついて離れないのが、私の1年先輩のS先生でした。この先生は臨床を離れ研究者の道を選択され、アメリカで准教授まで勤められた後日本に戻られ、今はK大学の教授をしておられます。余談ですが、元阪神ランディ・バースの自伝にS先生がチラッと出てきます。それはさておき、一言でこのS先生を説明すると、

「この人を差し置いて誰を天才と呼ぶのか、そしてこの人を善人と呼ばずして誰を善人と呼ぶのか!」

というくらい素晴らしい人でした。この先生が帰神された際に

「ゆうけい君、アメリカにはやっぱりすっごい天才がおるわ、やっぱり恐ろしい国や」

と興奮気味に延々と語ってくださったのが、キャリー・マリスという人物と、彼が発見・開発したPCRという方法だったのです。以下簡単に発見の経緯をまとめてみます。

 およそ発明と言うものには思いもかけない発想が必要なものですが、この方法も変わりものの天才のひょんな思いつきから始まりました。それが、キャリー・マリスなのです。この方法の発明によりノーベル化学賞を受賞していますが、サーファーでマリファナ愛好歴もあり、奇行奇言癖でも知られています。そのあたりは以前紹介したことのある研究者福岡伸一先生の訳された「マリス博士の奇想天外な人生(冒頭リンク)」に詳しいのでぜひご一読ください。宣伝文句を転写しておきます。

『DNAの断片を増幅するPCRを開発して、93年度のノーベル化学賞に輝いたマリス博士。この世紀の発見はなんと、ドライブ・デート中のひらめきから生まれたものだった!?幼少期から繰り返した危険な実験の数々、LSDのトリップ体験もユーモラスに赤裸々告白。毒グモとの死闘あり、宇宙人との遭遇あり…マリス博士が織りなすなんても楽しい人生に、きっとあなたも魅了されるはず。巻末に著者特別インタビュー掲載。(AMAZON解説より)』

 さて、その方法。そもそもDNAを増幅するにはDNA合成酵素(ポリメラーゼ)という酵素が必要なのですが、普通のDNAポリメラーゼは蛋白質である以上、当然ながら高温では変性・失活してしまいます。
 一方DNAの増幅には必ずアニーリングという高温処理が必要なのです。だから高音処理した後はその都度冷やしてポリメラーゼを追加して、と言う煩雑な処理が昔は必要だったのです。 ですから今から考えると恐ろしく時間がかかりました。逆に言うと高温のままでポリメラーゼが働いてくれれば飛躍的に増幅時間が短縮できるのです。

 そこでマリスは思いついたのですね、今から考えればそんな事誰でも思いつきそうなのですが、それこそコロンブスの卵だったのです。
 実は温泉や海底の熱水噴出孔などでも生きている「好熱菌」という微生物が存在する事は1970年代から知られていました。その中には驚くべきことに80℃以上と言う超高熱でも元気な菌も存在するのです。ここまで書けばお分かりでしょうが、

「そいつらのDNAポリメラーゼは高熱下でも変性しないんじゃなかろうか?」

と言うアイデアがキャリー・マリスの頭に浮かんだのですね。上記の宣伝文句にあるように、彼はこれをドライブ・デート中に思いついたらしいです、S先生のおっしゃるように確かに天才とはこういう人を言うんでしょう。ただの秀才の理屈屋なら、どんな生物の持っている酵素だって蛋白質だから抽出精製したらやっぱり熱で失活してしまうだろう、と却下して忘れてしまうところですが、彼はそれを実際にやってみたのです。

 その結果は、今PCR法が存在するという事だけでお分かりですね。彼が抽出した高熱に安定なポリメラーゼはTaqポリメラーゼと言いますが、TaqとはThermus aquaticsに由来しています。ずばり好熱菌のことです。

 と言うわけで、PCRという活字を見る度にあの頃の事がS先生の思い出とともに懐かしく蘇ってきます。日本で爆発的に軽症のインフルエンザ感染者が増えているのは案外この機械が精密すぎるせいもあるかもしれませんね。