ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

百頭女 / マックス・エルンスト(巖谷國士訳)

百頭女 (河出文庫)
 新型インフルエンザの影響はいたる所に出ておりまして、先日紹介した兵庫県立美術館の「ピカソとクレーの生きた時代展」も中止の憂き目に遭ってしまいました。
 そこで「マックス・エルンストの絵が観たかったぞ!」というおそらく十指にも満たないであろうシュールレアリスム・ファンの常連様の期待を背に受けまして、今日は天下の奇書「百頭女(La Femme 100 Tetes)」(巖谷國士訳)を紹介してみましょう。
 正直言ってこの本を紹介する日が来るとは夢にも思っておりませんでしたが、インフルエンザで学校が休みでどこへも出かけられず暇を持て余しているお子様方にもお勧めの絵本ですよ(大嘘。

 1929年にシュールレアリスムの画家マックス・エルンストが出版した、147ページ・9章からなるコラージュ・ロマン小説(?)で、1頁は挿絵と簡単なキャプションから成り立っており、全編悪夢のような幻想と反宗教、反道徳、暴力、破壊に満ちた世界像が描かれており、破壊からの新たな世界の再構築がはかられているようないないような(^_^;)。。。。。まあ凄い本です。
 小説と言ってもストーリーは無いに等しく、章間のつながりもあるようでありません。絵と注釈が全く一致しないページも、ごく普通にあります。

 全章を通して出て来る主人公(?)は謎の百頭女鳥類の長ロプロプなんでしょう、フフフ。簡単に紹介しますと、

百頭女: 当然ながらも頭はありません、名前はジェルミナルで「私の妹」らしいです。ちなみに「百頭女は秘密を守る」というテーマが繰り返し何度も出てきます。これはエルンストの、妹との近親相姦願望を仄めかしているのではないかと見る向きもあります。ちなみに第8章のラストに絵の無いページが一つだけあり、そこには

   こころしたまえ

人の記憶にとどまるかぎり、百頭女はかつて一度なりとも、再増殖の幽霊と関係したことはない。これからもそうはならないだろう。 -むしろ露のなかにひたされて、凍った菫の花を糧とすることだ。」

と書かれております。「こころしたまえ」と言われても、「はあそうですか」としか答え様がありませんが(笑。

ロプロプ: エルンストの産んだ最高のクリーチャーと世評は高く、他の彼の作品にも登場するので、エルンスト自身ではないかと言われていますが、その真の姿は誰も知りません。最初ロプロプはパリ市街に姿を現し、

「パリ盆地では、鳥類の長ロプロプが、街灯たちに夜の食事を運んでくる」

のですが、終章ではどういう訳か、

「ロプロプ、共感ある撲滅者にしてもと鳥類の長なりし者は、いくらかのこった宇宙の破片の上に、ニワトコの弾丸を数発ぶっぱなす。」

といつの間にか鳥類の長ではなくなっているようです。ワケワカメ。

Hyakutou
(「両眼の無い眼、百頭女は秘密を守る」の一つ)

 実在の人物もパストゥールセザンヌマタ・ハリ等々出ては来ますが、扱いは殆ど無機物同然です。唯一、「ファントマダンテジュール・ベルヌ」の頁では3人が仲良く飛行船に乗っております。これに関し批評家サラーヌ・アレクサンドリア

「この物語にはまさに、大衆小説(ベルヌ)と恐怖映画(ファントマ)の影像によって表現された一種の神曲(ダンテ)があるのだ。」

と述べております。はあ、そうですか、ベルヌでさえ高尚になりファントマなんて恐くもなんともない現在の低俗な世界にあってはあまり説得力が、、、(苦笑。

 もちろんコラージュが主体の絵画ですから、どこかで見たような様々な人物や動物も出てきます。動物では猿が多く、こちらは結構賢くて質問に答えております。

「あの猿に聞いてごらんー百頭女って誰?
教父のように彼は答えるだろうー百頭女をじっと見つめるだけで、わしにはあれが誰なのかわかる。
 だが君が説明をもとめればそれだけで、わしにはその答えがわからなくなってしまう。」

なんじゃ結局分からんのかよ、なんて言ってはいけません。所詮猿ですから。いやいや案外宇宙の真理が含有されているかもしれません(大嘘。少なくとも人よりは賢い設定のようです。

 えっ?何が何だか分からないって?ご心配なく、『シュルレアリスムの父』アンドレ・ブルトンが緒言を書いておりますので、そこから抜粋・コラージュして、この本の端的な紹介となるようにリコンストラクションしてみましょう。

「 待ちのぞまれていたものは、あるいくつかの表現の距離をおいた必然的な強化を、他のあらゆるものの消去によって増進させられた強化を、基本的に考慮しているような一冊の書物であった。(中略)
 待ちのぞまれていたものは、あたかも彫像を溝のなかに出現させるためには最小限その彫像の作者であらねばならないとでもいうように、印刷インクと活字以外にはなにひとつ他の本と共通するところをもちたくないと思う奇癖をまぬかれた一冊の書物であった。(中略)
 さらに待ちのぞまれていたものは、私たちにいわせればどうでもいいような、少なくとも偉大さの点からは好ましくないような、ある物理的・精神的公準(中略)のおかげで混同されているばかりのいくつかの世界の神秘的でいかがわしい特性を、同時に拒んでしまうような一冊の書物である。(中略)

 待ちのぞまれていたものは、要するに、『百頭女』であったのだ。

 なぜなら人も知るように、今日マックス・エルンストただひとりが、自己表現を企てる者ならば誰にでもある「フォルム」への卑小な関心(中略)のすべてを、自身のうちで厳しく抑制してきたからである。
 なぜなら人も知るようにマックス・エルンストこそは、近代の幻視の領域をひろげることのできる一切を前にしても、また未来と過去のなかに獲得できるかどうかは私たちだけにかかっている数知れない真の再認に属する幻想を呼び起こすことのできる一切を前にしても、決して尻込みするような人間ではなかったからである(中略)
 『百頭女』は現代のこのうえもない絵本となるだろう。(中略)一九三〇年をむかえる前夜、私たちの進歩の概念はこのようなものである。」

 う~ん、我ながら素晴らしいコラージュだ(爆。えっ、ますます分からないって!?そうですねえ、では最後にいくつか「いかにもシュール」というキャプションを紹介してみます。

「人は沸騰する洗濯剤によって、沈黙のうちに激情と負傷の魅力を増すだろう。」
「三番目の二十日鼠がすわると、伝説の乙女の体の飛ぶのが見られる。」
「直径の大きな叫び声が、果物と肉片を棺桶のなかで窒息させる」→「すると水いらずのささやかな祝宴がはじまる。」
「だが、波はにがい」→「真実はいつまでも単純で、巨大な車輪たちは、にがい波間を縦横に走るだろう。」
「体のない体がその体と平行に位置を占め、幽霊のない幽霊のように、ある特殊な唾液を用いて、郵便切手づくりの役にたつ子宮を私たちに示す。」

そして最後にロプロプと百頭女の饗宴を。

「九度目の誕生に続く第七の年代を思いださせるために、見えない眼をしたジェルミナルと、月とロプロプとは、彼らの頭でいくつかの卵形を描きだす。」