ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

ゲド戦記(4) TEHANU

Tehanu
Cover of first edition (hardcover), from Wikipedia

 申し上げるのも多分これで最後でございますが(笑、原作に関しても映画に関してもネタバレが多々ございますのでご了承ください。

第四話:Tehanu(1990)、邦題:帰還-ゲド戦記最後の書-(1993)

 この第4話は、20年近くの時を隔てて書かれましたが、時間的には第三話「さいはての島」終盤と重なった時期のゴント島で物語は展開します。

 ゲドの師オジオンに預けられたカルガド人女性テナーオジオンを尊敬はしていましたが、自らの意思で魔法使いの道を捨て、結婚・出産という一般女性として生きていく道を選びます。フリントと言う裕福な農夫と結婚しゴハという通り名を得て二児をもうけ幸せに暮らしていましたが、時は流れ彼女は一人暮らしの未亡人となりました。その当時ゴント島は治安が乱れており、流れの盗賊団が島を荒らしていました。そのようなある日盗賊団の親に焚き火に放り込まれ捨てられていたところを危うく救われた少女テルーテナーは引き取とることになります。

 その一年余り後オジオンから至急の 呼び出しがあり、テルーと二人で家を訪ねるとオジオンは死の床についていました。オジオンは寿命が尽きるまでの僅かな時間に

「自分の真の名前はAihal」
「テ ルーを皆が恐れるようになるだろう、教育せよ」
「今全てが変わった」

と言う遺言を残し息を引き取ります。この「全てが変わった瞬間」と言うのはおそらく第三話でゲ ドが死と生の境の扉を締めた瞬間だと思われます。

 そして喪に服している時期に、第三話の最後でゴント島に向け飛び立った竜カレシンが飛来し、テナーカレシンの背に乗せられたゲドに再会します。ゲドは衰弱しきっており、亡きオジオンの家でテナーたちの懸命の介抱を受けようやく体力を回復しますが、全ての魔力を失っており普通の人間となっていました。それを恥じる彼はレバンネン戴冠式での戴冠の役目を依頼に来た使者を頑なに拒み、大慌てで島の奥に隠れてしまいます。魔力を失った人間であること を恥じる彼をカルガド人であるテナーは理解できませんでしたが、村の魔女Mossに魔法使いの男について色々教わり、ある程度納得します。

 一方島の大領主の屋 敷には永遠の生命を欲する領主の依頼で魔法使いアスペンが派遣されていました。アスペンオジオンの死後の処置を巡る諍いからテナーを目の敵にするようになり、ついに はテナーに邪悪な呪いをかけてしまいます。危機に陥ったテナーテルーは一旦は偶然巡り会ったレバンネンの助けにより実家に戻ることができましたが、ある夜テルー の父親の襲撃を受けます。危うい所を隠れていたゲドに助けられ、それが縁でついに二人は結ばれ、結婚することになります。再び幸福な日々が訪れたテナーでしたが、彼女はま だアスペンの呪いが解けていないことを忘れてしまっていました。そしてある日ついにテナーゲドアスペンの罠に落ち、二人は断崖絶壁から突き落とされそうになる という絶体絶命の危機を迎えてしまいます。。。

 ル=グイン女史のフェミニズムへの傾倒が書かせた物語と言われ、その為主人公テナーは普通の人間としての道を選んだ女性であり、ゲドは既に魔法使いではなく、出てくる魔法使いは概ね敵役、とおよそ魔法ファンタジー小説らしからぬ構成となっています。もちろん小説としてはかっちりとした構成となっており、ネビュラ賞ヒューゴー賞の常連であった女史ですが、ゲド戦記シリーズでは意外な事に初めてのネビュラ賞をこの小説で手に入れます。

映画に登場する人物:

Ged(Sparrowhawk): 第三巻の最後でカレシンに載ってゴント島に運ばれますが、本作ではその続きでテナーの介抱によ り助けられるところから始まります。しかし、もう大賢人の面影はなく普通の人間なので、なんとも卑屈で頼りない人間として描かれています。後半再登場して実は以前からテナーを好 きだったことを明かすところなど哀れな中年のおじさんという気がしないでもないですね。最後のテナーの危機に際してもなすすべなく一緒につかまってしまいます。結局 この本での彼の役割は

普通の人間の男としてのありのままの姿を見せる

ところにあるのだとおもいます。

 というわけで映画で見られたような魔法使いとしての活躍や、敵魔 法使いとの戦いは一切ありません。これでは映画として成立しないので大賢人のままであるのは仕方ない、と前回申し上げましたが、そこまでしてもこの作品を舞台にしたかったのは結局テルーという存在に帰結します。

 一つだけ気になるのは原作の最後に覚醒したテルー(真の名テハヌ)が彼を「Segoy」と呼ぶところです。セゴイは太古の昔アースシーの島々を水中 から引き上げた大偉人です。果たしてGed=Segoyとしたル=グイン女史の真意は何だったのでしょうか。

TenarGoha): 第二話の主人公で、ゴント島のゲドの師匠オジオンに預けられてましたが、普通の女性としての道を選び未亡人となってゴハと呼ばれていました。テルーを育てているという設定は原作と映画で一致していますが、普通の女性の道を選んだ為、映画でみられるような魔法使いの仕事(薬の処方など)はしていません。

 また危機を助けられた船中でローク学院のMaster Patternerの予言

「次の大賢人はゴントの女である」

をあなたではないでしょうかと尋ねるレバンネン王に対し「それは私ではない」と否定しますが、これは原作にとっては非常に重要な暗示となっています。ただ暗示が暗示で終わってしまうところに本作の歯痒さがあります。

 なお第二話でも言及しましたが、テナーだけが白人に見えるのは美人に見せたかったからではなく、アースシー世界の中で少数民族のカルガド 人だけが肌が白いという設定ですので原作に忠実です。ただ、映画では民族問題には全く言及せず、白人であるル=グイン女史からみて他の主人公たちが有色人 種に見えないというのは不満だったようです。

 以上本作の本来の主人公ですが、映画ではあくまでも脇役に甘んじています。声優の風吹ジュンさんは悪くはないと思いますが、原作を知るものとしてはもう少し気品を出して欲しかったところですね。

TehanuTherru): アレンと並ぶ映画の主人公なのですが、同時に原作ファンが納得できない設定であるところもアレンとよく似ています。Therru(テルー)とは炎の意味でやけどと竜を象徴するダブルミーニングを持ちます。真の名Tehanu(テハヌ)は空に輝く「白鳥の心臓」という星の名前で、やがて世界の中心となる存在である事を象徴しています。人間の子供として生まれながら実は太古の竜カレシンの娘なのです。

 粗筋のところで述べたように(人間の)父親により火の中に突きおとされ大火傷を負って 捨てられていたという設定です。映画で顔の色が違う場所がその火傷の跡形なのですが、原作ではそんな生易しいものではなく、右の顔半分が原形をとどめず眼球は喪失し、咽喉も焼け爛れたため成長してからも掠れた 声しか出せません。右手の指も鉤爪のように変形しています。残った黒髪で顔を隠し滅多に人前に出ず、喋りもしません。

 更に拾われた時点で「6-7歳くらいだが2歳児くらいの体重しかない」との記述があり、映画のようにアレンと対等に話せる歳でも無く、ま してや歌でアレンを感動させたりできるはずもありません。そのあたりは原作と映画でかなりの乖離があり、原作ファンには納得できないところでしょう。失礼を承知で言いますが、あんな素人に声優をやらせるくらいなら喋らないでいて欲しかったと思う原作ファンも多かったのではないでしょうか。

 結局のところ映画スタッフは「実は太古竜カレシンの子供である」と言う設定だけを活かしたかったのでしょう。映画では彼女がクモに絞め殺されたかに見えた直後に覚醒し、ついに竜に変身しますが、原作では覚醒してカレシンを呼び寄せるだけで竜には変身しません。

 なお、前作でも少しだけ触れた本当に本当の最後の書、第五作「The Other Wind」の最後の最後でようやくテハヌが黄金の竜に変身するシーンが登場します。女史も彼女をなんとか竜に変身させたかったのでしょうね。ちなみに映画の変身シーンだけは女史も誉めています。

Lebannen(Arren): 第三話の最後で王に認定され、戴冠式を控えてゲドを探しにゴント島にやってきますが、その頃にはテナーも惚れ惚れとするような凛々しく礼節を わきまえた素晴らしい若者となっています。偶然にもある港町でテナーテルーを助け自船に乗せテナーの家のある港町まで船で送る役割を引き受けます。しかしテナーか らゲドが一緒に来る気が無いと知らされそのまま帰国してしまいます。よって映画とは全く異なり、彼は本作ではあくまで脇役の一人です。

Aspen: 映画の魔法使いは第三話で述べたクモがモデルであることははっきりしていますが、第四話の魔法使いは全く異なり、Re Albiの領主舘に招かれたアスペンという魔法使いです。彼がやったことで映画に出てくるのはゲドテナーを海に突き落とそうとするところだ けです。所詮ゲド戦記全体からみれば小物ですから、クモを蘇えらせた映画の設定は悪くはないと思います。

Kalessin: この竜は映画には出て来ないのですが、原作を語る上で欠かせない存在ですので簡単に説明しておきます。巨大な最古のドラゴンで古代語を話す人間とは会話が可能です。原作ではゲドレバンネンテルーテハヌの真の名を呼んでいます。第三話で死の国から生還した二人をローク島に運び、更にゲドをゴント島に運びます。それが第四話の冒頭につながるわけです。そして最後に娘テハヌテルー)の要請により再び飛来し三人を救うことになります。テハヌが一緒に帰ることを拒否したため、二人に彼女を預けるとの言葉を残し去っていきます。

映画に出てくる設定:
ゴント島: ゲドの故郷の島で師匠オジオンテナーテルーが住んでいます。ですから映画に出てくるテナーが住んでいる家はゴント島のは ずですが、ホートタウンと言う港町を描いてしまったためワトホート島と考えざるを得ないことになってしまいました。前回も述べたように、この点は原作ファンにはとても違和感があります。

 また、映画序盤でゲドが砂浜に打ち上げられた廃船や竜?の骨を検分しているうちに、野犬?に追いかけられているアレンに気づき助ける場面が出てきます。このような砂浜が本作のゴント島にあるはずはありません。
 ここまでお付き合いいただいた方ならお気づきと思いますが、これは西の果ての世界であるWest ReachのDragon's Run或いはセリダー島をイメージしていると思われます。ここまでアースシー世界を一緒くたにするとさすがに原作者も怒るんじゃないでしょうかね。

クモの舘: 邪悪な魔法使いの舘と言う設定で映画の見所の一つですが、これはジブリらしく細部までこだわってうまく描いていると思います。原作におけるモデルはAspenが請われてやってきたゴント島のRe Albiという街の領主館であると思われます。
 映画ではゲドアレンを助けようと侵入してつかまり、更にテナーは部下が連れ去って運んでくるという設定ですが、原作では以 前にかけておいた呪いが奏功して二人が捕まってしまいなす術もなく引っ張ってこられます。テナーなど何も考えられなくなり首輪をつけられ犬扱いされていると言うかなり性的 に際どい表現も見られ、むしろ映画の方が遠慮している印象さえ受けますね。

クライマックスの竜の出現: テハヌの項で述べたように、映画ではテルー(テハヌ)が変身しますが、原作では真の父カレシンが飛来します。テハヌとカレシンでは大きさも風格も全く違うはずですから、映画の竜がテハヌだとしたら、カレシンはあのクモの館以上の大きさがあるのではないかと思われます。それも見たかった気もしますね。
 設定としてはテルーテハヌ)がテナーの 元に残る点だけは守られています。映画ではアレンが贖罪の為故郷のエンラッド島へと去るわけですが、当然ながら原作にはそのような設定はありません。

 さて、何故人間が竜の子供として生まれたのか、あまりにも突然で突飛な設定の為映画の最後で戸惑う方も多かったと思いますが、ル=グイン女史は三部作の頃から既にその考 想は持っていました。竜と人間は太古の昔は同一であり、竜族と人間族が完全に分かれた四部作の時代においても時々竜の子供が人間として生まれる事はあ る、という設定なのです。

 以上のようにアースシーの世界観については当初から一貫した設定でぶれはなく第三話と四話の間には時間的には重複を含めた連続性があるのですが、実際には何度も述べたように20年近くの長いブランクがあり、ル=グイン女史自身の思想自体にかなりの変化が見られると言われています。

フェミニズム色が強い」

と言うの が一般的評価ですが確かにそうだと思います。特に第一、三話ははっきりと男の物語と言ってよいでしょう。真の高級魔法を使うのは男であり、女の魔女(witch)は地域に根付いて薬の調合や失せ物 探しなどの低級魔法をするものとされています。
 第一話の冒頭で

「weak as woman's magic, wicked as woman's magic」

と言う諺がでてくるほどです。もちろん第四巻でも魔法使いに関してその位置付けに変わりは無いのですが、普通の人間女性および母性という存在の偉 大さを大きなテーマとしている点がそれまでの物語と全く異質な雰囲気を生んでいます。

 言ってみれば「ゲド戦記」という題名から想像するイメージから最も遠いところにあると言えます。それを映画化に際し、テルーを出したいがために無理に第 四話を舞台としたところに脚本構成の無理が生じたのは明らかでしょう。
 
 最後に一点だけ、映画とは直接関係ありませんが、原作の瑕疵について触れておきます。フェミニズムの追求に関して満足したル=グイン女史はこの作品を以ってゲド戦記シリーズの終了を宣言し、副題を「最後の書」と付けました。

 しかし、実際には余りにも多くの事柄が未解決のまま終わっています。テルーの将来、ゲドとテナーのその後、ローク学院のその後、特に空位となっているArchmageの人選、Master Patternerが予言した「ゴントの女」の正体、レバンネンの治世の成否、神殿を破壊されエレス・アクベの腕輪を持ち去られたカルガド帝国の動向、そして最も大きなテーマとして残された世界の均衡の回復。

 そのため、ル=グイン女史は「最後の書」と言う宣言を更に10年の時を経て撤回し、21世紀に入り

Tales of Earthsea(2001)、ゲド戦記外伝(2004)
The Other Wind(2001)、アースシーの風(2003)

という二作を上梓しようやく上記の疑問全てに解答を出します。ここに至ってゲド戦記は完全に完結したと言ってよいと思います。なお、ジブリの映画の副題が「Tales of Earthsea」となっていますが、この本とは何の関係もありません。

 映画スターウォーズ・シリーズでも最初の三部作だけで完結した方が良かったというファンは多いと思うのですが、それと同様にこのゲド戦記シリーズも、最初の三部作のままでそっとしておいた方が良かったのではないかな、と今回初めて第四話を読んでみて思わないでもありませんでした。

 以上でようやく(^_^;)四部作の解説と映画との比較検証を終えました。自分が予想していたよりはるかに長尺となってしまったため、結局映画のどこが良くてどこが悪かったのか焦点がボケてしまった感がありますので、次回簡単にまとめを書いてゲド戦記に終止符を打ちたいと思います。